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俺がいた大学では、専門に勉強する分野を入学後に正式決定できるというシステムを持っていました。このこともあって、専門分野を決めるまで紆余曲折しました。でも、99年夏の北海道農場バイトで農業に興味が向いた俺は、選べる選択肢の中から「地理学」を専門とすることにしました。というのは、地理学という大きな専門分野の中には、田畑に植えてある作物別の地図を書いたりするという「農業地理学」という細かい専門があったからです。
ただ、農業地理だけ勉強すればよかったわけでもなく、授業としては他の地理学もかじる必要がありました。その授業の一つに「巡検」があります。これは、教室の中で授業を受けるのではなく、みんなで大学外へ出て、現地を訪れながらその場所について「地理学的に調べた内容を発表する」という形式の授業でした。この「みんなの前で発表すること」を除けば、「大学生の遠足」みたいなもので、農業にはあまり触れられなくても、楽しいものでした。
このページでは、そんな「巡検」で行った先の一つ、富山・飛騨・岐阜の写真を紹介します。
実際にはもう少し細かい場所も訪れましたが、写真を紹介するのは以下の景観です。
●巡検で北陸・中部地方訪問編
5月23日 富山市内
5月24日 砺波平野散居集落・奥飛騨合掌集落
5月25日 高山陣屋・三之町
5月26日 岐阜城跡

2000年春 北陸・中部 主な撮影ポイント紹介図
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●北陸・中部編詳細
<5月23日:富山市内>
まず、富山市内を巡ります。他で「バカは高いところに登りたがる」と書きましたが、ある地理の先生は「バカと地理学者は・・・」と言ってました。この言葉から、「地理学者はつまりバカである」のか「バカはつまり地理学者である」のか、あるいはどちらも成り立たないのか・・・どーでもいいですが、俺はコメントできかねます。
そしてお言葉どおり、俺ら「地理の学生」は、市役所の屋上に連行されます。南を向くと、飛騨の山々が望めます。「加賀百万石」の城、富山城を見ます。それだけ農業を盛んにできるということは、すなわち平和だったということです。富山城はそれを物語るように、天守閣を備えたような「戦闘的な城」ではありませんでした。また、富山は「常備薬」など薬でも有名です。市内を散策すると「反魂丹」などと書かれた看板を目にすることができました。
1枚目は富山市役所屋上から、南を撮影。遠くに飛騨の山が見えます。
2枚目は富山城。ごく小さなものです。
3枚目は、市内で発見した「ナイフBOX」。かつて平和だった町も、こんなものを置く必要がある街になってしまったのでしょうか・・・ってか、入れる人はいるのでしょうか?
初日はこんな具合で、富山市内で宿泊します。
<5月24日:砺波平野散居集落・奥飛騨合掌集落>
富山からは、飛騨の山々を縫うように南下して行きます。最初は、富山県の西に広がる、砺波平野の景観です。散居集落といって、家々が集まらずにポツポツと点在します。写真では、黒っぽい塊に見えますが、家というよりその周りにある防風林が見えているからです。なぜ集落ではなく散居になったのかは、諸説あって詳細不明です。ちなみに、俺が今住んでいる飯豊町も、これよりは小規模ですが散居集落をなしています。
1枚目は砺波平野。ノーマルで撮影。
2枚目は同じ場所からズームで撮影。
3枚目は、飛騨まで行く途中に立ち寄った場所で発見しました。ご丁寧に「よみがな」がついています。
続いて、世界遺産にもなっている合掌建築物の集落を見に行きます。
まず、相倉集落から。豪雪地帯という環境が、この急な斜面を持つ屋根を生み出しました。こうすると、屋根の雪が積もり続けることなく、家が潰されないわけです。そして、ここに限らず合掌集落は今も人々が暮らしています。つまり、たんなる遺産ではなく、「個人のお宅」としても機能しているわけです。失礼にならない範囲で観光しましょう。
1枚目は遠景。山間部なので田んぼも小さいです。
2枚目はアップ。人が写っているので、大きさが分かりやすいと思います。
3枚目は田んぼと家の他、洗濯物も写っていまず。単なる遺産ではなく「生きている遺産」であることがわかります。
相倉の次は、やはり世界遺産の合掌集落、白川郷・荻町へ移動します。こちらの方が、たくさんの合掌造りを見ることができます。ただ個人的には、相倉の方が「山奥」な感じが出ていてオススメです。白川郷は、どちらかというと既存のイメージでいう「観光地」に近く、都会的な感じが出てきます。まぁ、実際のビル群に比べれば全然気にならないですし、山奥である事は事実ですが、相倉を先に見てしまうと、そういう「ゴチャゴチャ感」を受けてしまいます。なお、ここも「個人のお宅」ですので、節度を持って観光しましょう。
1枚目は白川郷全景。
2枚目は同じ場所からのアップ。合掌家屋以外の建物も目に入ります。
3枚目はかやぶき屋根のふきかえ。たまたま作業の最中でした。昔は「結」という助け合いによって、お互いの家の屋根ふきかえを手伝ったのだそうです。ちなみに、世界遺産であるがため、自分の家を改修するのにも「許可」が必要だそうです。
この跡は高山まで移動しますが、途中で「蛭ヶ野峠」にさしかかります。何川と何川の水系だったか忘れましたが、日本海側と太平洋側の「分水嶺」だそうです。「何かの境界」とかも好きなので、写真に収めました。
1枚目は分水嶺の碑。
2枚目はそこにあった池。水面もミズバショウみたいのもキレイですが、「この池の水は、どっちの海に流れていくんだろう」「そしてその先はどこにいくのだろう」ということを考えるだけで、また「吸い込まれ」ました。
この日は高山で宿泊して終わりです。
<5月25日:高山陣屋・三之町>
高山です。この地方は江戸時代、美濃と加賀を繋ぐ交通の要衝でもあり、当時の飛騨地方は幕府直轄領でした。そういう歴史背景を観光資源として、当時の役所であった「高山陣屋」や、江戸時代の商業地としての町並みを残す「三之町」などが復旧されるなどして残されています。また、高山では授業として「自由調査」があり、地酒の調査をテーマに、造り酒屋を回っていろんなお話を伺いました。多くの酒屋さんは元をたどると「地主」で、年貢に収められた米の余りを利用して、酒造りを始めた例が多いようでした。
1枚目は高山陣屋。
2枚目は三之町の町並み。
3枚目は聞き取り調査に行った酒屋の一つ。
この日は最後に、岐阜市内まで移動し、宿泊します。
<5月26日:岐阜市内・長良川・岐阜城>
岐阜は、戦国時代の武将「まむしの斎藤道三」の居城である岐阜城があります。また、「鵜飼い」でも有名ですが、鵜飼いのいる長良川はしょっちゅう氾濫し、低地でもあるこの地域では「輪中」と呼ばれる建築様式も見られるようになりました。岐阜では、氾濫の歴史を物語る「堤防」や、そして長良川を見ます。
1枚目は、到着した前日に撮影したものですが、岐阜城のある金華山です。文字通りの「山城」で、山頂部に城があります。織田信長はどんな思いで眺めたのでしょう。
2枚目は、市内にある堤防です。道路がありますが、ここまで水が氾濫してきた場合には、奥に写っているシャッター部分から、道路をふさぐ形で堤防が伸ばされ、市街地を水から守るとか、確かそんな説明を受けた記憶があります。
3枚目は鵜飼いで有名な長良川。山の形が中国みたいです。
4枚目は、鵜飼いの人が利用する船です。
で、高いところに登りたいので、やっぱり山頂の岐阜城まで行きます。高いところは気持ち良いです。
1枚目は岐阜城の入り口。
2枚目は城の天守閣から岐阜市内を見下ろした様子。殿様気分です。手前を流れるのは、先に紹介した長良川。
3枚目は、城跡からの帰りに市内で発見した、ピンサロか何かの料金表。「SISTEM」(ほんとはSYSTEM)となっているので撮りました。「質」はどうか知りませんが、料金だけで言えば結構安いのではないでしょうか?
ここまでで授業としては終了。あとは名古屋まで出て、新幹線で帰りました。
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以上、2000年春の、北陸・中部の放浪写真でした。
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