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●その他よもやま話 |
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●共産社会ユートピア考-あるいは神の国- |
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(当初は日誌のネタにちょこっと使うつもりが、書いてるうちにそれこそ資本主義の如く「自己増殖」。こっちに移した。)
資本家に雇われる労働者。資本家は労働者(=「労働力」という名の抽象的商品を持つ存在)に対し、「労働力という商品の再生産費用」という意味で賃金を払う、ってのがマルクス的な認識における「賃金」である。
例えば、パソコンを買って、ただ置いておくだけでは何の意味・価値もなく、それを「使って」はじめて意味・価値がある。それと同様に「労働力」って商品も「使ってなんぼ」であるが、使えば当然「磨耗」する。もちろん色んな箇所が磨耗するわけだが、「労働力」って商品の一番分かりやすい磨耗箇所を挙げるなら、「胃袋」だろう。1日で必ず磨耗するこの箇所を修復し、また翌日にも今日と同じスペックを持った「労働力商品」として再生産する(ってか、労働力商品の持ち主たる労働者に「修復しといてもらう」)ことができないと、資本家にとってマイナスである。もし、修復ができないとすれば、それは修復のための資金が足りない=賃金が安すぎるわけだから、さすがに資本家もそこまではしない。事実、正社員だろうがフリーターだろうが、給料取り=「労働者」であるならば、なんぼ「給料が安い」とは言っても、「贅沢をしない衣食住」、つまり「単に生物として」最低限必要とする支出項目(=趣味・娯楽・各種保険・やたらな教育費etcを除いた額)に的を絞れば、それに必要とする賃金はだいたい貰えていると思われる。
また、この賃金による「労働力の再生産」って言葉には、「次世代の労働力商品の再生産」って意味もある。要は、今使っている「労働力」って商品が「経年変化により」「古くなって」「使えなくなった」時に、そのまま「ゴミ」として捨てていったら、いずれ資本家は何も商品を生み出せなくなる。だから、「子供」っていう交換用の「部品(商品)」を生産して、穴埋めができるように「労働力商品の持ち主として」「しかも、最低でもおまえと同じだけの、可能ならできる限りより高度な性能を持った労働力商品として」育てろ、ってことである。すると、例えば親の勤めている会社・グループに子供も入社した、なんてパターンは、資本家にとって正に意図した通りなのかもしれない。また、関連して「高学歴を持つ労働者の賃金が高い理由」ってのも、この再生産の観点から言えば、「子供に十分な高等教育を受けさせるなど教育費を支出し、親と同レベルかそれ以上の能力を持った労働力商品に仕上げよ」っていう意図があると言える・・・結局、労働力商品の(表面上の)性能は、「学歴」っていうポイントに評価の重点があるってことになるわけだが、果たしてその(実質的)スペックを十分に反映しているのかと問えば、必ずしもそうではないと思う。
さて。資本主義の下で雇用された労働者は、(自己の労働力の再生産費用たる)賃金分の価値の他に、「剰余価値」を創出する。この「剰余価値」ってのはマルクスの言葉で、例えばある労働者が、10時間の労働で2万円に相当する商品を作り出したとして、労働者に支払われる賃金が1万円であるなら、支払われなかった残りの1万円が、「剰余価値」だという。厳密に言うと違うけど、表面上は「雇い主の儲け」と見える部分だ。んで、資本家側はそれを「搾取」しているという風にマルクスは見る・・・まぁ、零細なりにも経営ってことをやってる俺からすれば、これはあくまで学問的に単純化した見方で、現実にこうだとしても、搾取したとされる「1万円全て」は資本家のフトコロに入らず、相当分はいわゆる「経費」として逃げていく。ただ、そういう現実を考慮したにせよ、「搾取」によって剰余価値の少なくとも一部は、資本家の下へ「資本家自身の労働なしに」蓄積する。
んで、資本家は蓄積した剰余価値=貨幣資本を元に、例えば新型の高性能な機械とかを導入する。それにより、当たり前だが例えば今まで10個の商品を作るのに10人の労働者を使う必要があったとすれば、今度は8人とかで済むようになる。それでまた資本が蓄積されて新型機械が導入されると今度は5人で・・・と、これが繰り返されると「失業」の発生に繋がる。さらに、あっちこっちの資本家が同様の方向性を取ると(まぁ実際にそうなったわけだが)、結果として大多数の消費者(=労働者)個々人の購買力=社会全体の購買力が落ち込み、なんぼ高性能の機械を導入して効率的に新商品を安く大量生産しようとも、商品が売れない「不況」なり「恐慌」なりが発生する。
よ−するに、資本主義の元での効率化・技術革新は、それまでに存在した諸々の商品需要(人々の色んな欲望)を満たし、社会全体として見ればそれ以前よりも物質的に豊かになっていくという、一面では良い方向に社会を進展させつつも、反面、そこにモノがあるのに(金持ちの資本家には買えても)、不況とか失業に関わらず、常に「搾取」されている労働者には満足に買えないという社会的矛盾を生み出す。最終的には労働者の不満が爆発し、人類史の史的展開の必然として「革命」に繋がる。
・・・と、ここまでは、マルクスが言ってたことの一部を俺なりに理解したことで、なんか目新しいことがあるでもない。
もう100年以上も昔のマルクスが見抜いたことである。その、資本家と労働者間における搾取の構造は、労働に関する色んな法制度とかが整ったにせよ、2007年の現在においても、資本主義の基本構造として連綿と受け継がれていること、これ自体は間違いない。その意味では、資本主義システムの本質を明らかにしたマルクスっておっちゃんは、素直にすげーと思う。ただ、今さら言っても結果論な訳だが、「資本主義の下では、労働者は常に搾取されてて良い事なんか何もなく、失業者も一般に増え続ける一方」と考えてしまったようなところが、マルクスの見落としていた点だと思える(今のところ)。
マルクスの図式で見ても、そこには「新型機械」が出てくる。まぁ、それも既存の企業が作るから雇用は大して増えない、という見方もできる。しかし、儲かる産業には規模拡大・新規参入が付きまとうから、労働力需要は再び発生してくると考えるのが妥当だろう(それが長続きするかどうかは別にして)。なのに、その新型機械を作る労働という、「それまでには存在しなかった雇用」が生まれるってことを、マルクスはちょっと軽く見ているように思える。もちろん、その「『新型機械』を作る機械」も新型になってるだろうから、当然のことながら、10人の失業者が10人とも必要となるわけじゃない。にせよ、発生した失業者が、そのまま全員とも失業者のまま固定されるわけじゃないことは言うまでもない。
んで「新型機械」だが、具体的には技術者(彼も労働者である)とかによって開発されるわけだから、開発主体となる「技術労働者」の知能・技術水準も高度化されてないと、新型機械なんか生み出されようもない。で、この高度化は、「(次世代の労働力も含めた)労働力の再生産」のために支払われた「賃金」の中から、例えば「教育費」などとして(ある意味では資本家の意図どおり)支出された結果、次世代の労働者の知的・技術的水準が高度化したことに由来する。で、高度化した労働者の中でも特に「優秀」な奴が、技術労働者として雇用される。んで、そいつらはまた高性能な新型機械を作り出し、労働力削減・・・これを延々と続けていくと、確かにマルクスの言うとおり、技術労働者として雇用される以外の大部分は、失業者の道を歩くしかないように見える。
ただ、忘れちゃいけないのが、こういった失業者も、単に雇用されなかったから、区分上は「失業者」扱いになってるだけで、一般に「高度化」していることは確かなわけだ。例えば、かつては中卒が当たり前だった時代があったのに、今やネコもシャクシもって言われるぐらい大学進学率が上がった、とか。(先にも書いたが、現在の大学制度が、「本質的な意味」で「高度化」に十分寄与しているかどうかの是非はおいておく。)
すると、「高度化された失業者の一部」が、それまでにはなかったような商品を考え出す可能性も、容易に想像がつく。失業者とは言えないが、「雇用されていない立場から立ち上げた」って意味では、livedoor発足時のホリエモンなんかがいい例だろう。で、その商品の製造・管理・販売プロセスの労働者として雇用されるのもまた、「高度化された」失業者である。彼らによって作られた商品、あるいはその存在そのものが、既存の資本家と市場で競合し、場合によっては相当な脅威となる。例としてまたlivedoorを持ち出せば、例の「敵対的買収騒動」みたいな。
もちろん、事業を始めるには、文字通り「資本」、つまりまずは「ある一定額以上に蓄積された貨幣」が必要なわけだ。で、マルクスは「労働力の再生産に必要な額」しか貰ってない労働者には、「貨幣の蓄積(=富の蓄積)」なんか不可能だから、労働者は労働者のまま、ひたすら世代を超えて再生産・・・って図式を描いた。事実、「マイホームを建てるのが夢」という労働者は現在でも多いと思うが、家はまさに、「労働力の十分な再生産」に必要な「工場」と見ることもできる。ただし、家はあくまでも家であり、資本主義的な意味での「工場(=資本)」を意味しないことは自明だ。よって、「マイホーム(労働力再生産工場)建設資金」として蓄積されている場合、なんぼカネがあっても、マルクス的に言えばそれは「貨幣の蓄積(=富の蓄積)」とはみなされない。家の建築資金は相当なもんだろうが、(家を建てないで)そのカネを使って事業を起こし、そこで儲けてから家を建てようと考える人は案外少ないように見える点は、俺個人としては興味深いんだが・・・話がズレたが、ただ、今やマルクスの時代みたいに、労働者の賃金をなんぼ蓄積しても、立ち上げるのにより大量のカネを必要とする「機械制大工業」ばっかりの時代でもないわけだ。いわゆる「IT分野」に代表されるように、別に大層な施設とか機械を買い揃えなくても、分野によっては新たに事業が始められる時代に変わった・・・とはいえ、そこそこの貨幣資本はやっぱり必要だが、大工業ほどのカネを使わずとも、やり方次第で大きく儲けることが可能な時代になったことは確かだ。
こう考えると、マルクス的な意味での賃金、すなわち、資本家としては「労働力の再生産」を意図して支払った賃金は、確かに短期的には賃金以外の部分(=剰余価値)の搾取って形で、資本家のフトコロを潤すことになったと言える。しかし長期的に見ると、高度化された次世代の労働者を再生産させることで、逆に資本家に対向・反逆しうる力を、ちょっとずつ労働者に与えたことになる、と見ることもできる気がする。雇用した労働者によって開発された、安価で高機能な新製品群によって満たされた社会は、かつて労働者側だった者にも、資本家に対向する手段を「それまでよりも容易に」与えるようになった、と。
ホリエモンは、結果だけ見れば、単に「脅威」で終わり、脅威が向けられた資本家の崩壊には繋がらなかった。しかし、この調子で「(再生産される)労働者の高度化」が進めば、いずれマルクスが想定もできなかったような形で、単なる暴力革命とは性質を変えた革命が起きる日が来るのかもしれない。確かに、あの騒動の段階におけるホリエモンは、まさに「資本家」だったし、そーいう意味では、単に資本家同士の競争と見ることもできる。だが、「世代を超えた労働力の再生産」という観点から見れば、ホリエモンもまた「再生産された(高度な)労働力の持ち主」なわけで、「次世代の労働者」になることを想定されて「再生産」された存在だったことは間違いない。そう見れば、あの騒動を一種の「プロレタリアート革命」の序曲と言ってもいいんじゃないだろうか。
・・・ほんとはここまでで終わる予定だった。が、書いてるうちについつい思考が飛躍してしまった。共産社会ユートピアの可能性を、トンデモ話になりつつも、ちょっと本気で書いてみる。
今まで見てきたような観点で「ゆとり教育」を見ると、次のように思えてくる。つまり、「ゆとり教育で子供たちの学力が低下している」とか表面上は騒ぎ立てても、実はそれを解決しようなんて、少なくとも資本家側、あるいは資本家とつるんだ政治家側は考えてないんじゃないかと。むしろ、「子供たちよ、バカになれ、もっとバカになれ」と願ってるんじゃないかと。先に見たように、子供ってのは「次世代の労働力」である。ある時期までは、それが新製品の開発とかに繋がって資本家にとってプラスになる一方だったわけだが、「ホリエモンの乱(仮称)」みたいに、高度化した労働者が自分たち資本家に刃向かうことも可能になってしまった。「次世代の(より高度な)労働力の再生産」を意図した資本家にとって、その高度な労働力の源泉である「教育」の高度化は、まさに「諸刃の刃」だってことが分かったわけだ。
資本家同士では、こんなことを考えてるかもしれない。
・・・おおよそ思いつく欲望の一切は、今までに発展してきた社会によって、ほとんど満たされた。それなのに、さらに高度化した労働者が大量に再生産されていったら、また新製品ができて出し抜き競争が激化する。俺たちは、幸か不幸かそーいう競争を今まで勝ち残ってきたわけだけど、今度の競争で市場から駆逐されるのは、俺かもしれないし、あんたかも知れない。だったら、「金持ちケンカせず」じゃないけど、お互い苦労する競争はほどほどにして、このまま俺たちはもちろん、俺たちの「子々孫々に至るまで」恵まれた富裕者でいられるように、平和的にいこうじゃないのよ。そのためにはまず、「高度な労働者の再生産」を止めて、一部のエリートを除いて単純労働しかできないような労働者が大量生産されたほうがいい。だから、「教育改革」とかテキトーなこと言って、子供の学力が低下するように仕向けましょう。んで、そもそも教育費にかける金ができるだけ少なくなるように、てきとーな理由つけて賃金自体を下げましょう。今なら、まずはお役所にがんばってもらって「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入でしょうな。あと、お役所にがんばってもらう事といえば、「消費税増税」だの「サラリーマン増税」だのでしょうな。とにかく労働者の手元に金が残らんように、お役所とは「当面は」仲良くやっていきましょう・・・
とか妄想してみた。
一方で労働者側は、「ゆとり教育」じゃ「高度な労働者」の再生産はできない=子供の将来の賃金が下がる、自分の老後を支えてもらえなくなるからって、諸々の教材を買ったり、家庭教師をつけたり、塾に行かせたりする。既に「教育の過熱化」とか言われるように、とにかく勉強の日々。そーいう中で、まぁ確かに「エリート」は育つかもしれない。だが、最終的に「エリート」になれるのは、自明の通りほんの一握りである。その他の子供たちにとって勉強付けの日々とは(生物として)一種の歪んだ環境であり、事実、「心を病んだ」とされる青少年が増えているらしい・・・って、かく言う俺自身、既にどっかおかしい。
そうしてできあがった「一部の(従順な)エリート」を資本家は採用し、企業の存続に必要な、最低限の技術開発とか経営の中枢業務に従事させる。現場の労働は、それまでの成果によってほとんどオートメーション化されてるはずだから、単純労働で済む。だから、心を病んでようがなんだろうが、とにかく動きさえすればいいということで、低賃金労働者として採用する。高い賃金を払う必要がある正社員なんかいらない。バイト・パートで十分。「フリーターが増えている状況」は、資本家にとって大歓迎なのかもしれない。「正規雇用はエリートのみ」の状況が進めば、当初は、マルクスが言うように失業者で溢れるかもしれないが、これはもうしょーがないとしか言いようがない。資本主義は弱肉強食、強いものが生き残るシステムである。冷たい言い方だが、彼ら溢れた失業者は、子孫を残せずにいずれは滅亡する階級である。また、「運良く」低賃金で雇用された一部の労働者も楽観はできない。最近流行りの文字通り「格差」がさらに進めば、彼らにはもはや「現世代の労働力だけの再生産」に必要な賃金しか与えられないだろうから、結婚とか子供を養うとかいうことが不可能となる。よって、長期的にはこの階級=低賃金労働者はほとんど次世代を作ることなく、徐々に滅んでいく。とにかく、資本家階級を維持するのに最低限必要な労働者数になるまで、この「全体的な労働者切り捨て」の傾向が続いていく。まぁ、別に失業者階級とか低賃金階級が存在したって、資本家側とって直接的には大した問題なじゃいんだろう。ただし、あんまりそーいう連中が多いと、資本家側が「犯罪」とかの被害に遭う危険性が高いわけで、低賃金労働者は可及的速やかに排除・滅亡に繋がるように、資本家側は意図するだろう。
んで、ずーっとずーっとずーっとこの状況を突き詰めて時代・世代を重ねていくと、最終的には「選ばれた小数の資本家(の子孫)と、「選ばれた少数の高度化された労働者(の子孫)」だけが、この地球上を席巻するようになる・・・こりゃすげぇぞ。超帝国主義だの超絶対王政どころじゃない。「世界制服」だ。文字通り地球は「人口100人の村」になる!それも、超金持ちにして超天才ばっかりの(プラス、諸々の意味で彼らの楽しみや快楽のために、「天然記念物」として「奴隷的な階級」もちょっとは残そうとするかもしれない)。まぁ、100人は言い過ぎでも、世界人口が超激減(例えば1億人程度とか)すれば、天然資源が枯渇するまでの時間は今よりも相対的に延長するし、各産業部門が今のように大量生産しなくても済むようになるから、環境に影響を与える副産物・廃棄物も最小限で済む。何よりも、生存してるのは超天才ばっかりだから、それこそ「太陽光発電を化石燃料並どころかそれ以上の効率で行う機関」「完全自然分解性を持った廃棄物しか出さない(あるいは廃棄物なんか出ない)工業生産システム」とかも発明してるかもしれない。そうなれば天然資源危機・環境問題はほぼ解決して、残る問題は「太陽の寿命」だけになる。しかし、天才なら問題ない。さらに「惑星間移住」とかまでやってのけるかもしれない・・・まぁ、だんだん「超トンデモ話」な感じになってきたからやめるが、つまり、俺の妄想どおりに資本主義が進展していくと、結果として「超エコロジー」な、超地球に優しい社会が実現する。しかも、その人口激減は、戦争とかの破壊的行為の結果ではなく、あくまでも「(その時その時の)合法的手段」によって達成されるのだ。さらに、マルクスが問題視した「貧富の格差」すらも、相対的な貧乏人が消滅していき、「(選ばれた)みんなが富裕者になる」ことで、格差という概念そのものがなくなる形で解決される・・・スバラシイ!?
ここまで来れば、資本主義も革命ナシに自然消滅する。競争相手がいなければ、競争の必要性なんてないのは自明。残された、いや、「選ばれた」小数の人類・・・すなわち、金持ち(ケンカせず)にして「高度化」された知能を持った人々ばかりなのである。まぁ、この状況下で「金持ち」であることは意味をなさないどころか、「カネ」というものそれ自体が意義を失うだろう。もちろん彼らは、争いが不毛であることも承知であるし、むしろ、ここに至るまで世代を重ねた結果の遺伝的淘汰(?)によって、基本的に温和で従順な性質を持った人々になっているかもしれない。そーいった人々が選ぶ道、それは疑いなく「共存・協力」となるはずだ。
つまり、マルクスは正しかったのだ。彼の述べた通り、「ブルジョア的社会構成」(=資本主義社会)が終わるまでの歴史は、やはり「人間社会の前史」に過ぎなかった。そしてついに、彼が理想として掲げた社会、すなわち、能力に応じて働き、平等に分配を受ける「共産社会」が、彼の描いたシナリオ通り「資本主義を突き詰めた結果」として、「資本主義の必然としての崩壊」を迎えることで実現するのである!?
・・・人類の「前史」はこうして終わりを迎え、激動の資本主義社会を生き延びた数少ないエリート達によって、人類の「本史」が刻まれていく。もしそこに「歴史の教科書」が存在するなら、そこにはこんな感じで書かれているかもしれない。
『かつて人類は、「資本主義」という社会制度を取っていた。これは、それまでの「奴隷制」や「封建制」などとは異なり、一種の「宗教制」とも言える社会制度であった。この制度の下では、「カネ」と呼ばれる抽象的存在が神と崇められていた。はるか古代ギリシャの哲学者デモクリトスは、「万物は原子で成り立っている」という真理に到達した。一方、資本主義の宗教におけるドグマは、「万物はカネで成り立っている」とするもので、これが普遍的な真理とされていた。そして同時に「この教えに背き、カネを求めない者は、生きることを許されない」というドグマも存在していた。』
『この資本主義という宗教において、預言者の立場には「政治家」と呼ばれる階級があり、司祭の立場には「資本家」と呼ばれる階級があり、多くの信者に相当する人々は「労働者」と呼ばれていた。司祭たちは、それぞれ「企業」「会社」などと呼ばれる礼拝堂・祭壇を持ち、信者たちを呼び集めては熱心に「労働」という儀式を行い、信者たちは何らかの「商品」と呼ばれるものを作り、司祭に貢いでいた。その代わり、儀式に参加した信者には、カミが宿っているとされる「カネ」が与えられた。彼らは「カネによって生きることができる」「カネがなければ生きていけない」と信じ込んだまま、差し当たり世代を重ねることができる程度に生きていた。』
『その一方で、預言者たちは司祭たちと協議しつつ、その時その時の都合で、儀式にまつわる諸々の作法等を定めていた。これらの作法は「法律」などと呼ばれていた。そして司祭たちは、信者たちに気づかれないように、商品が生み出した「富」の大部分を、お布施の代わりに「搾取」していた。搾取された富の一部は、預言者にも手渡されており、司祭たちはこの代償として、自分たちに都合の良い「法律」を定めるよう、預言者たちと協議していた。これにより、預言者・司祭たちの富は増大し、格差は拡大し、・・・(中略)・・・』
『かくして、人類の「前史」は幕を閉じた。かつて「歴史は繰り返す」と言う言葉があったが、「高度化」された我々は、同じ過ちを二度と繰り返すことはないであろう。否、あってはならない。』
とある教室。
生徒:「先生、質問があります。」
教師:「なんだい?」
生徒:「どうして前史時代の人類は、資本主義なんて社会制度を作ったんですか?」
教師:「うん、それは学会でも諸説あってね、議論が分かれているんだ。ただ、先生の個人的な考えを言わせてもらうと、まず、当時はそこに至るまでの文明的発展の成果によって、とにかくめったやたらに人口が増えていた。多くの人を、特に愚かな人々をまとめていくには、統一的な価値観が必要だね。そう思うだろ?」
生徒:「確かにそうですね。」
教師:「ところが、地球全体をまとめると考えた時、既に宗教とか民族とか国家とか、強烈な価値観が無数にあった。既存のどれかを使えば、他からの反発は避けられない。だから、そーいう個別の価値観に左右されないっていう意味で、人間である以上は普遍的で不可欠な、日々の生産・消費活動そのものを儀式として取り込んだ新たな宗教として作り上げて、価値観の統一を図ったんじゃないかなと思うんだ。」
生徒:「なるほど〜。一理ありますね。」
教師:「まぁ、結果的にはこうして、人口自体が減って各人の高度化が進んでしまえば、そんな宗教なんて不要だってことを証明してるのが、今ここに生きている僕ら「神(シン)人類」、つまりホモ・サピエンスってわけだ。もっとも、前史時代の文献からは、彼らが「勘違いして」自分たちを指してそう呼んでいたことも判明しているけどね。」
生徒:「そういえば先生、確か前史時代の人類は、大脳容積とか骨格の違いから、『カネクレヨン人』として区別されるんでしたよね。」
教師:「その通り。ただ、彼らカネクレヨン人と、僕らホモ・サピエンスがどういう進化の因果関係にあるかは、今のところ3つの説があってね。1つは、カネクレヨン人が世代を重ねて、そのまま進化したのがホモ・サピエンスだって説。2つめは、カネクレヨン人とホモ・サピエンスはある時期に種として分派して、生物としてはそれぞれ独自の進化を遂げてきたって説。これはつまり、カネクレヨン人が絶滅するまで、ホモ・サピエンスと共存していた時代があったとする説だね。そして3つめは、実は僕たちは、地球外生命体をその祖先に持つとする説。いずれの説もそれなりに証拠があって、生物学の世界で検証が続けられているみたいだけどね。」
・・・ヘタなSF脚本はここまでにしよう。結局、「みんなにとって平等な」社会を目指せば、やっぱ暴力・非暴力を問わず、革命しかないのかもしれない。マルクスが掲げる社会は、実現すればそれはそれは理想的なユートピアだと思う。ただ、これはマル経かじる前から感じてたことだが、人間に「欲」がある以上、実際に運営するとなれば、「現状における人類の一般的性質」から言って、まず不可能だと思っている。
「旧ソ連の崩壊こそ、社会主義・共産主義の間違いを示している」って見る人もいるが、マルクス的には、共産主義社会は「資本主義社会の諸矛盾を経過した上で」って条件付きではじめて成り立つって言ってることが忘れ去られている。つまり、マルクスに言わせれば、王政を倒して「いきなり」共産主義として誕生した旧ソ連ってのは、そもそもマルクスが想定していた共産主義の成立形態とは違っていた。「成立形態が違うからって言っても、共産主義は共産主義だろ」って答えもあるかもしれないが、旧ソ連には「根っこ」「土台」がなかったと言える。資本主義の下で搾取され続けてきた労働者階級の間に生じる共通意識が、「みんなで団結」して、「こーいう搾取のない平等な社会を作ろう」っていう気運が、共産社会には不可欠なのだ。なんぼ制度を共産主義で固めても、「みんなの意識」が、資本主義制度の矛盾の中で生きてきた実体験に伴う共通性に根ざして一体化していなければ、「平等な社会」など絵空事になるのは、マルクスから言わせれば当然だったかもしれない。なんつーか、「俺の平等」っていう意識から始まるのは理解できるが、それを単に集合させて取り出した最大公約数みたいなものが「平等な社会」ってのとイコールだと思っているうちは、共産社会なんて実現しないんじゃないか。んで、もし「最大公約数」で共産主義をやるとどーなるか、っていう悪い例を示してるのが、旧ソ連であり、今ならば北朝鮮ってことになるだろう。ただ、「最大公約数じゃない、個々人に応じた平等」ってのが具体的にどんなものか、俺はもちろん、残念ながら現代の人類のレベルでは理解・想起できない概念なんだと思う。それこそ、現在の人類からすれば「神」にしか理解できないような。
だからもし、共産社会が実現するとすれば、それはまさに「高度化」した人類がなせる業だと思うのだ。このトンデモ妄想のはじめに戻って言えば、やっぱ「教育」なのかなーという、何の変哲もない結論になる。もちろん、お受験なんてもんじゃなく、本質的な意味での教育ね。 (2007年3月13日)
※次回予告
マル経から考える「集落営農」と「農業法人化」-合理化、その先に見えてくるもの-
(構想中。公開時期:気が向いたとき。)
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●覆面百姓 |
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今日(6月23日)の夜、グレート・サスケの講演会に行って、話の中身ではなく「覆面」についてちょっと考えてしまったので。
覆面・・・世の中には「覆面なんたら」っていう職業がいくつかある。サスケは、「覆面レスラー」で、今回「覆面議員」になった。他には、本名も顔もあかさない「覆面作家」なんてのがいるし、何よりも有名な職業(?)に「覆面パトカー」がある。
くだらない事を深く考え込むクセを持つ俺の脳ミソは、「覆面百姓」という言葉を考え始めた。世の中、「顔の見えない農業」なんていう、誰が考えたんだか知らない言葉がまかり通っている。みんな「覆面」でもかぶってるというのか?そして農家側は、いろんな事をして「顔を見せよう」とする。文字通りに「顔写真」しかり、「肥料・農薬の使用履歴」しかり・・・それでもまだ、「顔が見えない」と言う御仁もいるだろう。
うん、その感覚が正しいと思う。俺が思うに、そんなものは「顔」じゃないのだ(それが「顔」だと思う人もいるらしいし、自分の記録としても、一応「使用履歴」は公開しているが)。生産者の顔写真は別として、言うなれば「使用履歴」というのは、顔というよりも「カルテ」に相当するようなものだと思う。素人が病院のカルテを比べて見たって、どれも同じようにしか見えないハズだ。せいぜい、文字の違いだの量の違いなんかに気がつく程度だろうと思う。
そういうものを見て、例えば「なるほど。ナントカ病にかかって、ナニナニ薬を投与したのか。確かにそういう処置もあり得るが、他にコレコレ薬という手もあったはずだ。ナニナニ薬の成分はアレアレだから確かに効果は期待できるが、副作用としてソレソレもあり得る。こういう症状なら、まずは副作用の少ないホレホレ成分主体のコレコレ薬を投与して、経過を見てからでも遅くはなかったし、処置として正しかったのではないか?」みたいな判断を出来る人が、一般消費者の多数を占めているとは全く思えない。分かりもしないのに見せろという。何で見たいんだろう?教えて欲しいもんだ。「よく分からないが、見れば『安心』する」のか?まぁとにかく、今のところは、「カルテ」を見て「顔」と思う人が大多数なんだと思う。
普通の意味で「顔」ってのは、みんな違っているのが当たり前で、似ている人はいても、基本的にみんな違う。こんなことは言うまでもない。そーするとやっぱり、「顔が見える農業」の行き着く先は、「誰々さんの作った農産物」ということになる。すなわち「究極の差別化」である。
となれば、「グレート・サスケ」「覆面」のごとく、一番最初のとっかかりは「目立つ名前」「目立つ顔」の方が有利に決まっている。その後に続くか、リピーターとして定着するかは、もちろん「味」とか「品質」にかかってくるわけだが。とにかく、「本名」も「素顔」も見せなくたって、「顔の見える農業」は可能なのだ。そして幸いにも、俺の「本名」については、結構目立つ(あ、屋号の候補としては「日本農園(脳炎)」ってのがあった。今考えるとこっちのが良いな・・・)と自負している。じゃぁ、顔は?うーん、今のままでも十分「濃い」気はするが、「目立つ」かと考えるとそうでもない。となれば、やはり「覆面」によって目立つという方法もあり得る。しかし、覆面で作業するとなれば・・・当たり前だが、暑いわな。そっか、だから「覆面百姓」っていないんだな。ナルホドナルホド。
でも、「顔の見える農業」をうたいつつ、「覆面」っていいなぁ。
(オマケ)
そーいえば。くだらない事としては、こないだ「脱皮阻害剤」のマッチを散布しながら考えた事がある。「もし、人間が脱皮して成長する生き物だったら・・・」
すげーことになる。例えば、成長期の人間が集まる中学校を想像しよう。授業中、「先生、ちょっとトイレ行ってきます」なんて言うヤツがたまにいるが、これが「先生、ちょっと脱皮してきます!」と変わるだろう。そして、「タバコ吸うなよ〜」という冗談(?)は、「脱いだ皮はちゃんと流すんだぞ〜あと、ちゃんとちぎって細かくしないと、詰まるからな〜」という、本気の戒めになる。そして翌日の全校集会で、生徒指導の教師は叫ぶのだ。「昨日の放課後、職員室脇のトイレで、脱ぎ捨てられたまんまの皮を見つけた!誰だ!正直に出て来い!そこのお前!肌がまだツヤツヤして柔らかいところを見ると、脱皮直後だな。お前かっ!」とか。イジメの手法は、「みんなの前で強引に、パンツをずり下ろす」から、「強引に脱皮させる」となる。ショックで自殺する前に死んじゃうわな。イジメ撲滅キャンペーンのスローガンは「皮は脱いでも脱がせるな」とか。
しかもさらに、「サナギ」期間があるとしたら面白い。サナギになる虫は、それを脱いだら「成体」になるわけで、これに相当する時期を人間で考えると、それは高校期と考えられる。中学3年生頃になると、とあるご家庭ではこんな会話が繰り広げられるだろう。「ママぁ、ボクそろそろサナギになっちゃいそうだよぉ・・・」「まだダメよ!サナギになったら、体も脳ミソも全部ドロドロになっちゃって、せっかくお勉強したことも全部忘れちゃうんだから。お受験できないでしょ!サナギになるのは、合格してからよ!」みたいな。あ、合格したはいいけど、サナギでどーやって勉強すんだろ。脳ミソはドロドロだしなぁ・・・
こんなことを、農薬散布しながら考えたりするわけで。(以上、6月23日。)ほんと、どーでもいいな・・・
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●神々のワガママ |
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「子供部屋」訪問者のT(千葉の酪農「見習い」)とメールでやりとりをしていて、次のようなネタを振られました。ツボにはまってしまい、メールでは長すぎるのでこっちに掲載することにしました。まずは実際のやりとりを引用します。
> > さすが。俺の「思考パターン」が分かってきてるねぇ。「もっと安く買いた
>
い」っていうニーズと、「もっと農薬が少な
> > いものを買いたい」っていうニーズは両立不可能だってことを分かってくれりゃぁ
>
いいんだが。
> ☆安かろう悪かろうはどうにもならないってこと?
> どうして安くて安全なものってできないのかしらねえ。
>
そもそのなにをもって安全っていうのかしらね。
「悪かろう」ってのが何か、にもよると思います。「品質や鮮度が他よりも劣るもの」なのか「農薬を使ってるもの」なのか。前者の場合は言うまでもなく、そうなるのは当たり前。具体的には、せっかくなのでTのメールをそのまま引用して、乳価の場合を見てみましょう。
> うちの組合を例にだすと、1キロの基本乳価が77.00円(3月時点)。
>
それに乳脂肪と無脂固形が規定値より上回るとスライドしていくらかつくのね。下回
> ると逆にとられるんだけど。
>
乳脂肪率のスライド単価が0.01%あたり0.03円/キロ・無脂固形率のスライ
> ド単価が0.01%あたり0.04円/キロ(3月時点)
乳価の場合はこんな具合で、品質に応じて価格が変動するそうです。
そして、「悪かろう」ってのが「農薬を使ってるもの」を意味している場合も簡単な話で、例えばもし、全国のミニトマト農家が全員揃って「無農薬栽培」したとします。そうすると、流通されるミニトマトは全て「農薬を使ってない」わけですから、イコール全て「良かろう」ものに変わります。でも、俺が「農薬のこと」のページに書いたとおり、無農薬だと「現時点の基準における」商品果の供給量が大幅に減少しますから、価格は当然高くなります。いや、高くなってくれないと農家が生活できません。「商品果」というものの基準が今のままなら、「安かろう悪かろう」は、どーしようもないと思います。
よって、「安全」って言葉の意味を、「=農薬を使っていない」ということだと仮定すると、「安くて安全なもの」が商品として流通され得る条件は、俺が考えるにこうなります。
『農薬を使わないことで大量に発生する「現時点の基準で言う非商品果」(ちょっとした虫食い果とか、見た目にしか影響がない障害果・病害果とか)も受け入れられる、消費者意識の土壌ができていること。』
この状況が現実になれば、「安くて安全なもの」が、スーパーとかにたくさん並ぶようになるでしょう。
Tとのメールの中では、商品にならない「くずキャベツ」をくれるおばちゃんの話がありましたが、Tにはどこが「くず」か分からなかったそうです。俺だって、メロン農家でバイトしてた時、「くずメロン」をたくさん見てきましたが、説明されなければどこが「くず」なんだか分かりませんでした。以上のことから考えると、素人目には何が「くず」なのか分からないのですから、この状況も簡単に現実化しそうな気もしますが・・・♪何でだろ〜ぉ♪そうはなってません。
「卵が先かニワトリが先か」じゃありませんが、もとをたどれば、農家として「安定した収量を確保する」目的で使ったのが農薬であり、その結果出てくる「見た目の良いもの」を、次第に求めるようになったのは消費者です。「見た目がよけりゃウマイだろう」という意識があったのでしょう。そして時代が変わり、「見た目が良いのは当たり前」だと誤解したんだか知りませんが、今度は「見た目が良くて安全なもの」を求めだしたのが、お客様(=神様?)である消費者です。
俺は、応じられる範囲のものは「ニーズ」と思えますが、どうやってもムリな応じられないものは、ニーズなんかじゃなくて、単なる「わがまま」だと考えます。そして消費者一般は、自分が「わがまま」を言っている自覚がなさすぎると思います。北海道のメロン農家でバイトしていた時、見た目以外は全く問題ない「くずメロン」を毎日毎日捨てながら、つくづくそう思いました。
では、「わがまま」ではなく「ニーズ」として受け入れられるものとは、どんなものか。例えばこんな声なら、ニーズとして受け取れます。
「そうすることで発生する余分な経費と損失に見合うだけの値段で買ってやるから、無農薬で作ってくれ。」
これなら、十分理解できます。確かに、完成品である「製品」にニーズを向けられるのは当然ですし、製造者は「可能であるならば」応じようとする努力が求められます。しかし、「製造過程」にまでニーズを向け、しかも反映させたいのなら、製造過程の事を十分に知ったうえで意見して頂かないと、製造者としては「とんちんかん」なものとしか受け取れません。なお、誤解して欲しくないのですが、俺は「わがまま」は無視しますが「ニーズ」を無視するつもりはありません。例えば「もっと美味いもの(甘いもの、と認識しています)が食いたい」というニーズについては、応えようとしてあれこれ考えて実践しています。(個人的には、酸味の強いトマトの方が、暑い時期にはさっぱりして好きなのですが・・・)
最後に一言。俺は、自分のミニトマトについて、農薬を使っていますが、「安全なミニトマトです」と、自信を持って言えます。(農薬取締法、およびそれに基づいた安全性試験そのものが「間違っている」とされない限りですが、末端の使用者である農家には、そんなところまで疑って検証することは求められていないはずですし、求めようとしても専門の知識や技術がないので不可能です。)
もともとメールの返信予定文に手を加えたせいか、何だかちぐはぐな話になってしまいましたが、ここでしめます。(6月13日)
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●鳥インフルエンザ考 |
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同じ農業でも、畜産分野はほとんど未知の世界です。ただ、今日(2004年3月14日)のフジ系番組「報道2001」で、非常に興味深いコメントがあったので書きます。
番組は、鳥インフルエンザについて「政府の対策は万全なのか?」と、政治家や学者なんかを呼んで進められていました。
で、コメンテーターの竹村健一氏は、この鳥インフルエンザ騒動について、
『日本人というのは、完璧を求めすぎる。』
という言葉を述べました。話の前後を割愛してしまいましたが、要するに「絶対に人には感染しない」「これ以上蔓延しない」という(完璧に安全な)状態を極端に求めすぎるということでした。
話はそれますが、「完璧」を求める一例として、俺が大学を推薦受験した時のネタを書きます。
推薦の面接試験には、5人の受験生で行う「集団討論」というものがありました。試験官から与えられたテーマに関して自由に討論をせよ、というものです。与えられたテーマは「ダイアナ妃の事故死について」でした。討論の中心は、パパラッチのことからプライバシーの権利や人権のことへと移り、「人権絶対」を主張する4人と「必ずしもそうとは思えない」俺1人に分かれました。
4人の細かい意見は忘れましたが、大きくは「自分の人権が侵害されたらイヤでしょう?」「だから他人の人権も尊重すべきです。」というように、道徳の教科書的な主張をしていました。俺も、基本は確かにそうだと思います。俺はそのことを踏まえたうえで、次のように反論しました。
・・・まず「パパラッチ」というのは一つの「職業」として存在しています。職業が成り立つ=それでメシが食っていけるということは、「客」がいるということを意味します。そして言うまでもなく、パパラッチの客とは、「有名人のプライベートなスキャンダル」を求める俺ら一般人なわけです。理由はともかく、スキャンダルには全く関心がない、という人は稀だと思います。だから、俺らの存在が、パパラッチを生み出しているわけです。普段はパパラッチによる「プライバシー侵害」を間接的に楽しんでいながら、いざ事件となったら正義面して、一方的にパパラッチ批判をするのは、あまりに都合が良すぎないでしょうか?人権が絶対と主張するのは結構ですが、そう言うご自分は「私は一切、人権侵害をしていない」と胸を張って言えますか?・・・こんな具合の反論です。
この4人の例からも、「人権絶対」=「完璧な状態の」人権を求めようとする態度が伺えます。4人の内1人は、その極端な例です。その女の子は俺の反論で半泣き状態でヒスになり、後は何を言っても「それでも、人権は絶対なんです!」を繰り返し、話にならなくなりました。
鳥インフルエンザのことで言えば、「完璧な安全状態」なんて実現不可能です。つまり、「政府の対策は万全か?」なんて問うこと自体が、無意味です。単に不安をあおり、誤解を広げるだけです。なぜなら、自然相手の現象に「絶対」「確実」「完璧」ということははありえないからです。良く言われているように、野鳥によるウイルス媒介を100%防ぐなどということはムリでしょう。理由は違っても、牛の狂牛病だって同じです。
若干、メディア批判めいたことを書きましたが、パパラッチ同様、そうやって「本当に大丈夫なのか?」「本当に安全なのか?」と疑問を抱く多くの視聴者がいるから、メディアが存在することも事実です。
ということは、日本人の多くが「完璧」を求めるという竹村氏の発言もあわせて考えると、日本国民一般とは、「完璧と確認できるまで疑問を持ち続ける」という意味で、「子供」であると言えないでしょうか?さらに言えば、日本という国こそ「ネバーランド」であり、まさに「平和ボケ」した人々の集まりだと言えるわけです。だからこそ、「平和な暮らし」を乱しそうな要素は、微塵たりとも認められないため「安全なのか?」と確かめ続けるのでしょう。ところが子供はしばらくすると、そんな問題などなかったかのように「飽きて」忘れてしまう。ほんと、平和な国です。しばらくすると、平気で鶏肉を食べるようになるでしょう。(余談ですが、有機無農薬ブームだって、そう長くないと思っています。)
「報道2001」の番組内では、過去に流行した各種インフルエンザによる死亡者数を挙げ、例えばスペイン風邪では数千万人の使者が出ている、というように伝えていました。これに対して竹村氏は
『しかしその後、つまり第二次大戦後に発生している香港やソ連のインフルエンザなんかは、格段に死亡者数が少ない。つまり、科学や医学は時代と共に進歩しているのだから、スペイン風邪の時代で考えてはいけない。』
というようなことを述べていました。ほんと、そう思います。(そういえば、現代医学こそ「ナチスによる人体実験」という大規模な人権侵害によって成り立っています。もし、人権が絶対だというなら、それによって成り立っているお医者さんのことも批判する必要がありますね。)
不安をあおるだけでなく、それを解消するような報道が中心となる事を期待したいものです。端的には、たぶん「専門家」「その道の権威」なんかが「安全です」なんて言えばOKなのでしょう。でも、先にも述べたように「自然のことに完璧はない」と学者もわかってるでしょうから、安易に「安全」とは口にしません。誰か一人でも何か問題があった時、責任を問われたりしたら厄介ですからね。
とにかく、「自然が関係する現象に完全ということは保証できない」ということを、大前提として十分認識することが重要です。そして、鳥インフルエンザでも狂牛病でも同じですが、「農薬のこと」でも書いたように、リスクが十分小さいと判断できるなら、許容することが必要です。いつまでも「あれも危ない、これも危ない・・・」なんて言ってたら、そのうち何も食べられなくなります。「無農薬米」で有名なアイガモだって、鳥インフルエンザに感染するおそれがあるんですよ。そしたら、次はどんな米を食べますか?
そういえば、茨城の米農家でバイトしていた時、親方や周りの農家の人がこんな話をしてるのを聞きました。
『・・・有機無農薬米ったって、世の中は大気汚染だ酸性雨だって言ってるわけだろ?そんな中で育ってる米なのに、肥やしを有機にして農薬を使わないだけで安全なんて言ってる連中がいるんだからなぁ。ホントに安全な有機無農薬をするって言ったら、東京ドームみたいな施設でも作って、完全に外と仕切って、空気も水も浄化するとかして育てるっきゃねぇわなぁ。』
最後は皮肉なわけですが、俺もそう思います。それに、「有機無農薬農産物で健康を」とか考える前に、まずは光化学スモッグだの排気ガスだのにまみれた土地を離れることが重要と思います。
さて、長くなるので、とりあえず閉めましょう。日本はアメリカ追随の国なんて言われますが、鳥インフルエンザに限らず、「リスクに対する判断や考え方」こそ、「アメリカナイズ」されるべきだと思います。
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●ムクダイ農法のこと |
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まず、ムクダ農法が言うところのセールスポイントを紹介します。要するに、「ムクダイという資材を使用すると、このような効果が期待できます。」という内容です。
以下、「株式会社アコーズ」HPからの引用です。なお、UとかPとかLとかは、資材の商品名です。
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農薬や化学肥料を農薬や化学肥料を畑に入れると、化学成分が水によって酸素や土の中の鉄や硫酸などと鎖状に結合します。これによって、土の物理的作用等の機能が低下していき、連作障害を引き起こすと言われています。
また、土の物理的機能が低下すると土壌生物が住めない状態になっていきます。
1. ムクダイUを散布する。
ムクダイUを散布すると、残留塩基や残留薬品の鎖を破壊します。ムクダイUを深く浸透させるほど効果が大きくなります。
連作障害がひどい場合は3回散布します。
2. ムクダイPと有機堆肥を入れて良く肥やす。
ムクダイPを入れることによって、土壌の物理性能を改善し、バランスを整えます。
3. 定植後、定期的にムクダイLを散布する。(1ヶ月に2〜3回)
ムクダイLを散布することによって、土と植物を活性化して元気に育っていきます。
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と、こんな農法だそうです。そして、ムクダイのキーワードは「活性ケイ素」です。これが、土の中の「有害物質」をキレイにするそうです。
俺は化学は専門でないし全くわからない(いわゆる文科系でした)ので、とりあえず専門の人の意見を借りようと思います。大学時代の友人、山田君によるコメントを紹介します。
紹介するのはメールでの返信内容です。HPに掲載するにあたり本人に確認をとったところ、具体的な研究テーマは掲載しないように要請がありましたので、その箇所は削除してあります。他に、俺の判断で不要と思った部分も削除しました。
以下、「青年化学者」のコメントです。
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はい。山田です。
専門は有機合成化学、有機「ケイ素」化学です。
>『”活性ケイ素”を土壌に散布すると、作物の生育に悪影響を及ぼすいろんな成分だのをきれいにしてくれる。』
>で、自分でいろいろ調べたんです。はい。ばけがくの知識がない俺が理解したつもりのことは、
> @自然界の大部分のケイ素は、酸素と結合して、二酸化ケイ素の形で存在している。
ここまでは正解。
おそらくこの「活性ケイ素」というのは「ヒドロシラン」という化合物を指していると思われます。
ヒドロシランはケイ素−水素結合をもっている化合物の事です。実際、還元能力を持ちます。
しかし、比較的安定な化合物なので通常、単独では有機物と反応しづらく還元剤としても機能しません。放っておくと空気中の水分と反応してシラノール(ケイ素に水酸基OHが結合したもの)になります。
ではこれが連作障害に効くという話ですが、確か、連作障害は原因が一つではなく、また、わからないことが数多いはずです。(って三田の方が詳しいか)
有機物を分解するって話だけど何を分解するんだろうね?確かに要らないものを選択的に攻撃できるほど化合物って頭よくないと思います。
ひょっとしたら本当に効くのかもしれないけど、まあ、ただの学説ぐらいに思った方がいいでしょう。
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とのことでした。ちなみに、連作障害は俺も今のところよくわかりません。
「>」で引用になっている部分は、俺が先に送信した内容です。がんばって自力で調べてみたわけです。まぁ、結果的には何にも理解できなかったわけですが・・・
ただ、「作物の生育に影響を及ぼす化学成分だけを狙って分解できるのか?」というのは最初から疑問としてありました。もし、ムクダイが何らかの分解能力を持っていたにせよ、「作物に必要な成分まで」分解されたらたまったもんじゃない、と思います。例えば「硝酸」があったとして、それが「窒素と酸素の単体」まで分解されたら、作物は吸収できなくなります。
確かに、「ケイ素」がイネに良いとされることは、米農家のバイトで親方から聞いてました。化学はわからなくても、農業関係でのケイ素関係資料について自分で調べたら、研究機関(兵庫県立中央農業技術センター)の成果情報に『無機元素による全身獲得抵抗性誘導』という論文がありました。
それによると、作物にケイ素を与えると、具体的にはキュウリやイチゴの「ウドンコ病」に効果が期待できるのではないか、とのことでした。ケイ素は、ガラスの主成分です。単なるイメージではあっても、「細胞膜が硬くなれば、病気の菌も侵入が難しくなる」ような気もするので、化学はド素人の俺でも何となく納得できます。
だから、「ケイ素を含む肥料を試してみよう」ということで、2004年は「ケイ酸カリウム」という緩効性の化学肥料を使ってみることにしました。野菜よりも、主に米農家で使用される肥料です。
ただ、同じケイ素の効果を期待するにしても(「活性ケイ素」は普通のケイ素やケイ酸と違うのだろうか?俺にはわかりませんが。)高い金を払ってムクダイを使う必要はないと、個人的には思うのです。なお、ムクダイは「特許」を取っていて特許番号も公開されているので、特許庁の検索システムで探してみました。しかし、具体的な化合物名や内容については閲覧不可でした。
(面倒なので今回はここまでにします。)
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●環境と農家のこと |
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農家・農業という存在について、考えたことありますか?よく、他の産業に比べ「自然環境に密着した職業・産業」なんて言われるような気がします。
確かに、そういう側面は非常に大きいと思います。水耕栽培という形態の農業もありますが、多くは「土」という自然存在があるおかげで、農業が成り立っています。また、他のページでも書きましたが、季節や天候という条件に大きく影響を受ける事は、水耕栽培であっても否めない事実です。
でも、だからといって、大規模な工場や施設を有する他の産業と違うのかというと、「人間の力ではどうしようもない部分が大きい産業である」ということ以外は、基本的に同じです。自然の中で作物を作るからといって、まったく自然任せのほったらかしではありません。肥料を与えて順調に育つようにしてあげたり、農薬を散布して病害虫から守ったりと、「手を加えて」農業をするわけです。つまり「何かしら人間の手を加えて物を作り出す」という大きな意味では、同じなのです。ただ、主に機械という「確実性の高い」条件下でほぼ100%人間の思い通りに物(製品)を作れるのか、自然環境という「確実性の低い」条件に大きく依存しながら製品を作るしかないのか、という違いがあるだけです。
でも農家とて、その「不確実な」状況に甘んじているわけではありません。他の産業が「もっと早く大量に良い製品を作れる機械を導入しよう」と考えるように、農家も「不確実な部分をどうにかしよう」と、いろいろ考えるわけです。どちらも「より大きな利益を上げよう」という意図があるわけです。
例えば天候は、ほとんどどうしようもない自然条件です。しかし、俺がやっているような「施設園芸」では、ビニールハウスを使用することでその範囲については「ある程度」どうにかすることができます。
具体的に自然の影響の一つ「気温」をとってみましょう。俺は4月にトマトの苗を植えますが、山形の4月というのは土の上にまだ雪が残っていたり、雪は解けていたとしても今度は土がグチャグチャで、まだ苗を植えられる状態ではありません。それに、もしどうにか植えたとしてもまだまだ寒いですから、トマトはほとんど育たないか、おそらく霜でやられたりして枯れてしまうでしょう。
ところがビニールハウスを使用すると、屋根のビニールを張れば雪は防げます。そして密閉するなどして温度をあげ、外気温よりも高い状況を作り出せます。当然、ハウス内の雪は外よりも早く解けて乾きますから、4月でも苗を植えることができるわけです。そしてなぜそうするのかと言えば、できるだけ早く植えた方が早くトマト(製品)を収穫できることになり、冬に近づいて外気が寒くなってもハウスで温度を保つことで枯らすことなく収穫を続けられるからです。その結果、100%自然任せよりもトマト(製品)の収穫量(製造量)が増えるので、自分の利益につながるからです。
もし全くの自然任せだとすると、雪が解けて土が乾くのは5月に入ってから、そしてただ土に苗を植えるだけでトマトが順調に育ってくれるのは、早くて5月中旬だと思います。収穫が始まるのはおそらく7月上旬になり、冬に近づいて寒くなると、おそらく10月上旬にはトマトが生きていても実は赤くならず、ほとんど収穫できなくなるでしょう。つまり、約3ヶ月間しか収穫できないことになり、その間の売上だけでは、俺は生きていけないでしょう。
ハウスを使用した場合、4月中旬に苗を植えると、早ければ5月末から収穫ができます。そして、11月中頃まではなんとか収穫を続けられます。つまり、全くの自然任せより倍近く長い期間に渡って収穫を続けられることになります。自然という「不確実性」を、ハウスによって小さくすることで「確実性」が増すわけです。
ですから、農業を含め全ての産業・企業において、何らかの方法でもって「確実性」を増す方向に進むことは、「利益」を増こととほぼ等価なのです。当たり前のことなのです。どこかの企業や工場が現在所有している機械を、わざわざ「作業能率が悪くて製造ミスも多い不確実性の高い機械」に換えるようなことはありえないし聞いた事もないと思います。
その一方では確かに、あまりに「確実性」を求めるあまり、利益以外のことに目を向けず、結果として過去には「公害」などの環境問題が発生したのも事実ですし、忘れてはいけないことです。
その反省から、様々な環境基準が設けられ、一つ大きな例を挙げれば世界的に「二酸化炭素排出規制」などが設けられたことは周知の通りです。まぁ、「排出権」の売買なども行われてはいますが、理屈の上では、世界トータルの「各種産業による二酸化炭素排出量」は減り「最小限の環境負荷は与えつつも」「人々の生活は維持している」ことになるはずです。何らかの製品を工業的に大量生産する過程で、二酸化炭素を「環境中に一切排出しない」というのは、いろんな意味でかなり困難ですし現実に不可能だと思います。だから、排出規制は設けられても「工業的排出量はゼロにせよ」とは言われていないはずです。それは、そこまで規制したらほとんどの大規模工業生産が不可能になり、製品は全て能率の悪い方法(極端に言えば全て手作り)になり、結果として流通する製品が不足したり値段が高くなったりして、人々の生活がうまくいかなくなることは、難しく考えなくても簡単に予測できるからでしょう。
この「二酸化炭素排出規制」と似たような形で、農業の世界では「有機無農薬」の動きがあると思っています。確かに農業という産業も、利益や「確実性」を求めるあまり、環境を無視してきた事は否めません。それに、他産業に比べて特に「自然」という不確実性を常にはらんでいたため「せめて生産量だけでも確実に確保したい」「そのためには肥料を多く」という思いが強かったと考えられます。その「肥料の大量投入」が続けられた結果、一つの例を挙げれば田畑から水系に流入した過剰な肥料成分(窒素やリン)によって地下水汚染が判明したり、水中生物の各種異常が発生したことも事実です。また、農薬の方でいえば、特にキュウリで話題になった「ドリン剤」のように、過去に使用された農薬が未だに残留していて検出されるということにもなっています。
だから、「肥料成分をやたらと環境中に排出しないようにしよう」とか「環境中に農薬を残留させないようにしよう」という意見が出るのは当然ですし、俺も納得しています。
ただ、だからといって「肥料は全て有機肥料を使いましょう」「農薬も使わないようにしましょう」というのは、あまりに冷静でない極論だと思うのです。いわば、先の二酸化炭素規制の例で言えば「排出は一切禁止」と言われるようなものです。
二酸化炭素はおそらく「排出を完全禁止するとまともな工業生産活動が維持できなくなり、その結果人々に多大な影響を与える」ことが理解されていたから、「排出ゼロ」とはならなかっただろうという、俺の理解は先に書いたとおりです。なぜ、二酸化炭素についてはそういう理解があったのに、農業が排出する「肥料成分」や「農薬」については、そういう理解が十分なされないのでしょう?おそらく「工業製品は機械を使用しなければ大量には作れないが、農産物は自然さえあれば収穫できるだろう」という考えがあるのだと思います。
確かに、自然任せでも全く農産物を作れないわけではありません。しかし、自然任せで農薬を一切使わなければトマトは40%減収するということを「農薬のこと」のページに書きました。それに、有機肥料は分解されて作物に吸収されるかどうか読めないということも「肥料のこと」で書きました。肥料成分が十分に与えられなければ、収穫量が減少する事は目に見えています。そうすれば、農産物の製品流通量は減少し「人々に多大な影響を与える」ことも、容易に予測できます。
過去を振り返れば「沈黙の春」で描かれた時代の農薬は、環境に残留する薬品だった場合が多かったようです。その一つが先に挙げた「ドリン剤」と呼ばれるものです。この薬品に限らず、残留する危険性が極めて高い農薬は現在の世界では使用自体が禁止されています。そして最近の農薬は、そういう反省を踏まえ「何らかの形で分解して、環境中に残留することがほとんどない」農薬になっています。
そして同じように過去を見れば化学肥料も、やたらと必要以上に投入して、環境中に流入して悪影響を及ぼしました。しかし有機肥料とて、「肥料のこと」のページで書いたとおり、菌の分解活動を制御することが困難なので、結果的に環境中へ大量排出することにもなりえます。しかし、各種研究機関では、「作物は、各肥料成分をどの位吸収する傾向があるのか」という研究を行っていて、結果も出ています。例えばトマトの場合、210日前後の栽培期間では苗1株当り合計約20g前後の窒素を吸収させるのが良く、N:P:K比率ではおおむね2:1:3のバランスが良い、ということが分かっています。
ですから、農薬については「分解する農薬を使用する分には」環境中の残留を気にする事はないと言えますし、化学肥料についてもトマトなら苗1株20gで計算した分の肥料を与えれば、環境に悪影響を及ぼすことがないと考えられるわけです。もちろん、やはり「自然」という不確実な存在に影響される部分がありますから「完全にそうだ」とはいえません。それでも、やみくもに農薬を使用したり必要以上に肥料を与たりしなければ、環境への影響は「最小限に食い止めることができる」とは言えます。
そして繰り返すようですが、そうすることで「環境への影響を最小限に留めつつ、安定した製品製造量についての確実性を維持し、それを購入する人々への影響もなくて済む」「しかも環境負荷も最低限に留め、自分の利益も保てる」という状況が両立できるのです。よって、有機肥料をむやみに使用し農薬も一切使わないというのは、先に挙げた「作業能率が悪くて製造ミスも多い、不確実性の高い機械」に換えるようなものなのです。
他で書いたとおり、有機肥料には「必要なだけ吸収されない可能性が高い」という生産量に関する不確実性が、そして農薬を使わないという事は「病害虫にやられる可能性が高い」という同じ不確実性が非常に大きく、生産する農家にとってのメリットがあっても小さいわけです。同じことですが、そのベネフィットは、生産する農家にとってリスクより大きいとは言えないのです。
世の中は、「学歴重視」の社会から「個人重視」の流れに変わりつつあるようです。それはいわば、学歴という「外見・イメージ」重視から、個人という「中身や本質」重視の流れと言えます。農業に関して、何も考えずに「有機無農薬」を求め、それを無批判に「良い」と判断する事は、結局「外見・イメージ」だけを見て、本質を見ていないことと同じなのです。「顔の見える農業」なんて言って、生産者の顔写真を見て「この顔つきなら信用できそうだ」なんて判断するのも、やはり同じ事です。「顔が見える」とは、文字通りのそういうことではありません。まぁ、顔写真を見たければ見てもらっても一向に構わないのですが、それだけで判断されたら、ごらんの通り俺の顔ならおそらく「怪しい」と思われて終わるでしょう(ToT)だから俺は「中身・本質の顔」で勝負したいと思います。(それも怪しいか・・・)
言いたい事は今のところ以上です。どうか「二酸化炭素は一切排出禁止!」などという、自分の首をしめるような盲目的発言をする前に「現代的な生活を維持したいなら」冷静な判断をお願いしたいところです。
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