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| 2008年2月中旬の作業日誌 | ||||
| 2008年2月20日 曇 起きたら脚&腰がつったし、ダルいんで昼まで二度寝。結局、準備運動どころじゃないことをイキナリやったのが原因だろう。カンジキ履いて雪の上を行ったり来たり5時間以上・・・固まってない雪の上を歩くってのは、踏み込んで足を持ち上げる力が雪に吸収される分、普通に歩くよりも負荷が大きい。 午後から出て、リア東側の肩裾撤去だけやっといた。 |
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| 2008年2月19日 曇 ドナ肩裾撤去。仮止めが90cm間隔で入ってて、予想以上にメンドクサイ・・・6年前にこれを指示し、シルバーのおっちゃん達に手伝ってもらいながら組んだのは俺だが、こんなに入れる必要はなかった。つーか何でこんなに入れようと思ったんだか「キオクニゴザイマセン」。 そう判断したのは、間違いなく俺である。いや、それが「俺である」と言えるのはなぜだ?「新陳代謝」なる機能は、日々、さっきまで「俺の一部」だったものを少しずつ解体して、それまでとは違う存在・違う構造へと変えていく。それは、6年前から今に至るまでの期間も、それまでと同様に進行していた。ならば、今現在の俺と、6年前の俺が「同じである」などと、どーして言えるのか?自分で判断した(らしい)ことでさえ、「キオクニゴザイマセン」となってるし。そうではあっても、「6年前の俺も、今現在の俺も、同じ俺である」という理解が、違和感の無い理解である。じゃあ、「違和感が無い」と感じている「主体」は、「俺という肉体」とはどっか別のところにあるのか?それとも「脳ミソ」こそ、俺なのか?脳内のシナプス伝達がどーたらで、「そーいう感覚が生じる」ナドナドを説明することは可能だろう。だが、その感覚を「感じている」主体はどこにいるのか?あるいは「誰」なのか?サッパリワガンネ・・・ ワガンネから、俺はその存在を、とりあえず「神」と呼んで勝手に納得している。それが、「三田教(狂)」。すなわち、「俺は神」。同様に、「あんたも神」「みんな神」。その意味では、神々の関係性に「世俗的な序列」など存在しない。三田教(狂)は、原理的には「平等主義」「平和主義」である。だが、ソクラテスだかの言葉をもじって言うなら、「俺は、俺が神であることを知っている点で、自身が神であることを知らない他の神よりも優れている」のである。さすが俺。 そんな俺は、 最近、 「通りすがりの、堀北真希」 が、 好きだ。 |
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| 2008年2月18日 準備運動開始 曇 大雪続きで延期していたが、今日から「冬眠明け」の準備運動を始めた、ってか結果的に始めてしまった。差し当たり現状。だいたい胸〜首まで埋まるぐらいの積雪。作業のための足場の高さとしては、いい具合に積もってくれた。 今日は現状視察と段取り検討だけで、動くのは明日からのつもりだった。しかし、「見ちゃったらいじりたくなる」のが男子であることに異論はなかろう、諸兄よ。とりあえずドナのマイカ線ほどいて、マイカ取り回収までやっといた。 大阪府知事になった橋本さんが、図書館以外の事業への資金投入を止める方針でいる、みたいなニュースを見た。んで、「今まで使っていた人は『要る』と言うだろうし、そうじゃない人は『どうでもいい』と言うだろう。最終的には政治的判断。」とか本人が言ってるのを聞いて、やっぱし「政治家」を「統治者」と履き違えてると思った次第。「住民不在の政治」。 「ふるさと納税」の話が出たときも思ったが、大阪に限らず国も同じで、税金の「使途」を「納税者自身が決められない」ことが、最大の問題だと思っている。現状で納税者が決められるのは、選挙によって「使い方を決める人(=政治家)」だけである。それのみをもって、「民主的な政治が行われている」とは、少なくとも俺には思えない。 そして選挙で選ばれた人間は、税金のその使い方に関して納税者の意向を汲む必要が無い。「住民の意思を代表して」という、一見すると民主的な言葉とは裏腹に、結局は「自分個人の意思に従って」税金を運用しているに過ぎない。その結果、住民が必要としていないものが作られれば、やはり「ムダ」にしかならない。 いや、大阪の財政状況がどのぐらいマズイのかは知らない。もしかしたら、すんげー緊急性が高いのかもしれん。第一、そうなった原因を作ったのは彼じゃなく、それ以前の府政である。 でも、「現状における府の事業の内、要るものと要らないものは何ですか?」と聞くことぐらい、できるんじゃないかと思った次第。恐らくは今までそんな形の住民投票なんかなかっただろうから、それだけでも十分に改革と言えるだろう。そして以後は、自分が納める住民税の使途を、納税時に決めるようにする。そーすりゃ、「知事個人が要らないと思った事業でも、多くの住民が必要としている事業」については、「その事業用として納税された額の範囲で」存続される。それで住民が満足できないレベルの事業だったら、翌年のその分野に対する納税額は上がるだろう・・・ガソリン税も同じ構図だ。 主権者が国民であるなら、政治は、国民の「上」にはない。「中」にある。 |
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| 2008年2月17日 ゆうじょ 雪 福島:晴 「事情聴取」ならびに今後の契約履行に関する協議、つーか「原契約の一部を変更する契約」のため福島へ。相変わらず、栗子を超えると世界が違う。 一昨日の件があってから色々考えたが、やはりここでの「権利の行使」は得策ではない。今回は「弁済可能な条件」を再設定することにした。題して「準金銭消費貸借契約変更契約書」・・・ムダに長い。作成に当たり、「宥恕(ゆうじょ)」なる契約用語(?)を覚えた。意味は、「寛大な心で許すこと」・・・さすが俺。俺は神。寛大な心は、神たる条件の一つ。 15日の弁済額が不足していたことで、期限の利益は喪失している=全額一括弁済&遅延損害金の支払いを履行すべきOさんに対し、それを「宥恕」し、期限の利益を再付与する、という変更契約を締結した。ただし、「神の許し」は1度きりであり、2度はない旨も盛り込んだ。新たに設定した今月末の弁済が履行されない場合、「神の鉄槌」が下される。 |
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| 2008年2月16日 雪 岩手の蘇民祭。大変申し訳ないが、今回この騒ぎになるまで全く知らなかった。まさに「報道なくして事実なし」・・・んなアホな。 結論から言うと、あれは間違いなく国家権力の横暴である。例え全裸の参加者があったとしても、「公然わいせつ」などと断罪できる性質のものではない。 そりゃ、祭りでもなんでもない所で全裸になれば「公共の福祉に反する」と言われてもしゃーない。だが、祭りというものは、「見たい人が見る」のである。見たくない人は、そもそも来ない。だから、参加者と観客の間に、「全裸になりますよー」「いいですよー」という、暗黙の合意が、硬いことを言えば「契約」があると想定できる。そして日本には「契約自由の原則」がある。契約当事者同士の合意について、国家は干渉してはならない、という原則だ(自分で契約書作る中で得た雑学)。よって、今回の一件は、その原則を侵害した、国家的犯罪と言うこともできる。 また、教育基本法で問題になってる「愛国心」。『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する』なんて文言がある。この文言において「わが国」と「郷土」のどちらが優先されるか、という序列規定は見当たらないし、そもそも序列をつけるべき性質のものとも思えない。 岩手県の「郷土」に伝わる、「伝統」の祭りの一つとしての、蘇民祭。子供も参加するかどうかは知らない。だが、少なくともその地域に住んでいれば、必然的にその存在を知ることになるし、見物に行くこともあるはずだ。そうやって「郷土」「文化」を知り、子供は育つのではないか?教育基本法において、「郷土と文化を尊重し」「わが国と郷土を愛する」などとうたいながら、愛すべき「郷土」の「文化」を、国家権力が歪めてしまったというのが、今回の顛末と言えるのではないか。 だから今日はこれ。 稲垣久和 2007.『国家・個人・宗教 近現代日本の精神』講談社現代新書. 公共哲学系のエサである。「公か私か」の二元論に慣れきってると、その中間としての「公共」を説くこの分野は、どーしても概念やイメージが掴みにくい。それに、「公共哲学」っていう体系自体、まだ未完成な印象が強い。固まっていると言えるのは、「滅私奉公」に対する「活私開公」って概念の提示ぐらいに思える。それを共通の土台に据え、「温故知新」的に過去の思想で提唱された「公共」概念をつまみ食いして、それを現代に合うようにアレンジする、という流れになりがちだ。全体としては、ナルホドネと思わされる箇所は多々あるし、広く浅く色んなものを見るには便利だが、「展望」が見えにくい。個々の素材の味は分かるにせよ、一つの料理の味としてまとまりがない、というか。 ただ、今回の蘇民祭の一件で、なんとなくイメージが掴みやすくなった気がする。日常の街中で全裸になることは「私」の暴走。個人重視を突き詰めていくと、そうなる。一方、当事者の意思を無視して、画一的に「全裸禁止」としてするのは「公」の暴走。国家とか全体の重視を突き詰めていくと、そうなる。公共哲学の人ならば、いずれにもノーを唱え、「当事者が合意しているなら、それを尊重すべき」と言うに違いない。そーいうあり方や価値観を、いろんな分野で広めていこうとしている人たちなわけだ。 |
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| 2008年2月15日 権利行使と忍耐のジレンマ 雪 今日は、先に締結の「準金銭消費貸借契約」で設定した、第一回弁済の約定期日である。契約上、今回の弁済約定額は30万ちょい。そのうち10万が入金され、20万ちょいの不足。 バッチリ契約した以上、もはや黙ってる理由はない。状況確認および督促の電話を入れる・・・曰く、「取引先が手形の不渡り出して、倒産した」とのこと。 Oさんとしては、その取引先から予定されてた今日の入金を、そのまま俺への支払いに回すつもりでいたらしい。その相手先が潰れ、当然に支払いもないまま貸倒れになった、と。 言ってしまえば、その倒産した取引先がどーだのという事情は、俺にはソンナノカンケーネー話である。俺の立場で問題になるのは、約定期日に、約定金額がキチンと入金されるか否かのみ。そして否であれば、「期限の利益喪失条項」を根拠にして遅延損害金を上乗せし、全額一括弁済を請求すりゃいいだけの話。応じないのであれば、強制執行文言を盛り込んだ公正証書にはしてないものの「マトモな契約書」があるわけで、その気になりゃ「しかるべき手段を取る」「出るとこ出る」のも可能だ。 だが、少なくともOさんには「払う気」がある。口だけではなく、実際の行動からも、そう判断できる。どっかから捻出したんだろうが、契約締結の数日前に一部弁済の事実があり、今日も同様に一部金額の弁済がなされている。また、キャラクターとして、叩かれても簡単には死なない「ゴキブリ的しぶとさ」を持ったオヤジであると認識している。 諸々の状況から判断するに、恐らくは厳しい状況であろうことは理解でき、今回の取引先倒産は、さらなるダメージになってると思われる。しぶといゴキブリとて、やはり死ぬときは死ぬ。無論、Oさんの会社がどーなろうとも、「契約上は」保証人にOさん個人を設定しているから問題ないという考え方もできる。しかし、やはり中小企業は百姓と似たようなもんで、会社経営の破綻は、社長個人の破綻とほぼ同義である。よって、ここで死なれてしまうと、俺も困ることになる。生き延びていてくれれば、「払う気がある」以上、支払いが止まるという最悪の事態は避けられる。国が「少子化」を問題にするのも同じだ。税金を払う奴がいなくなれば、現状で言うところの「国家」は破綻する・・・既に破綻しているとも言えるが。 ともあれ、俺としては「しかるべき手段」を取る「権利」を持っている。そして「出るとこ出れば」、まぁ間違いなく勝てるだろうし、それはOさんも重々承知しているだろう。だが、今の状況での「勝ち」は無意味である。相手が「持ってれば」いいが、今この状況でトドメを刺してしまったら、こっちも何も受け取れない。そーなると結果的に、「俺自身の首を絞める」ことになってしまう。 よって、現状で俺が取りうる最善の策としては、契約上の遅延損害金を加算しつつ、妥当な期間の猶予を設定し、最終的には元本も損害金も完全回収できるように「忍耐」すること、と思われる。 ほんと俺は、毎年毎年、何かしらやらかす・・・まぁ、波風の無い平々凡々な日々よりは、「生きてる実感」を嫌っちゅうほど味わえているとも言えるが。 パンパースよ。カンボジアに寄付する余裕があるなら、俺によこせ。 |
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| 2008年2月14日 雪 パンパースのCMは、スバラシイ。もちろん俺は、オムツなど無縁である。 『あなたが/あなたの子供のためにすることが/誰かの命を守ることになる』 パンパース1パックの売上の一部から、カンボジアの赤ちゃんのワクチン1本分に相当する寄付がなされるらしい。 もう一度言おう。スバラシイ。 誤解の無いように言っておくと、その「寄付行為」がスバラシイのではない。何となれば、このCMのキャッチこそ、スバラシイのである。 注目すべき点は、「パンパース」という商品自体のセールスポイントが、何一つ語られないことである。わざわざ大金はたいてCMを流してるのに、「もれない、むれない」とかの文言が、何一つない。自社商品について直接的な宣伝となってるのは、「パンパース」という商品名のみである。 企業イメージ戦略の一つとも言える。同様の目的だろうが、どっかの石油会社のCMも記憶にある。「当社は、焼畑農業の国に稲作の技術指導をして、森林伐採を食い止めるために努力しています」みたいのだったが、あれだと「勝手にやってれば?」みたいな印象にしかならない。だいたい、森林伐採を食い止めるために稲作って発想がオカシイ・・・それはともかく、パンパースのCMは、自社のイメージアップというより、言うなれば「自尊心をくすぐる売り方」なのだ。しかも、単に「寄付しています」「寄付しましょう」じゃない。普段の当たり前の生活をすることで「他者に貢献できる」、そのお手軽さが、消費者にとって受け入れやすい。自分は何も損をすることなく、普通の生活をすることで、自尊心が満たされる。経済的・物理的には特に自分の足しにならないが、心理的な「オマケ」が得られるというメリットがあるわけだ。 そもそもオムツ市場ってのは、規模が限られている。例えば衣類や装飾品とかとは異なり、「オムツ」ってのは必要以上に購入・取得する意義が全くない性質の商品である。だから、赤ちゃんの数×必要数量=オムツ市場の規模と考えられるし、他社商品の流通量も含めれば供給量は飽和していると考えていい。その状況下で自社の売上を伸ばすには、「他社の顧客を奪う」しかない。だが、商品間に目立つ差がないとするなら、今回のCMみたいに「一見すると宣伝にならないようなCM」でも、購買行動を促す可能性が十分にありえると思わされた。こういったCMが効果を発揮する条件としては、「ある程度の経済的豊かさを実現しており」「そのことによる加害者意識が多少なりともある」ってのもあるだろうが。 大々的に宣伝している以上、言うだけ言っといて「実際には寄付しない」なんてことは考えにくい。そして実際に寄付するんであれば、それは利益としてはマイナスになる。それでも、そのマイナスを埋めるだけの追加利益が、このCMによって見込めるんだろう。そうじゃなきゃ、普通はやらない。もしそこまで行かずとも、「オムツ」という商品の性質からして、一度使って「特に問題がなければ」、やたらとアレコレ浮気せず、大抵はずっと同じ商品を使うと想定される。初めてのオムツ購入の時点でパンパースを選ばせることも、継続的な利益獲得のためには重要と思われる・・・ まぁ、小難しいことはいい。とにかくパンパースのCMキャッチは、スバラシイ。 |
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| 2008年2月13日 雪 「この人のこの本を買う」って決めてる場合じゃなく、「特に決めずに物色して」本を買う場合、ポイントは3つある。@興味を引かれるタイトルかA目次で概要と展開を見て、ネタに対する角度や焦点がオモシロそうかB適当に本文を眺め、書き方とかが「肌に合うかどうか」・・・普段はこの3点をクリアしてないと買わない。今回エサはBをクリアしてないが、ネタにそそられて買ったもの。書き方が対話形式の場合、(サドの小説は例外だが)こっち側に訴えてくる感じが薄いので、通常は却下している。 なだいなだ 2002.『神、この人間的なもの−宗教をめぐる精神科医の対話−』岩波新書. 著者と対話者のT氏は、共に精神科医で学生時代の同期。無神論者の著者に対して、カトリック信徒のT氏という対照的な2人が、人間精神との関連から宗教というものについて語り合う、という中身。相反する考えの2人が激しく議論するとか、そーいう展開ではない。全体としては、信徒でありながら、信徒である自身を精神科医として客観視しつつ、「信仰の実態」を話すT氏の言葉が興味深い。どっちかってーとT氏の著作に近い気もする。 「キリストは『キリスト教の教義』を知らないままで死んだはず」「教義は後世のあとづけだ」みたいな話から、そーいやそーだよなとか思わされる。三大宗教の始祖は現代で言う「精神科医」に近い存在だったのではないか?心因性の病気が「暗示」で治ったことが「奇蹟」と理解されたのではないか?数世代続く信徒の家庭では、信仰とは特別なものではなく、「呼吸」とかと同じで全く自然な「習慣」みたいなもんである、とか。「神は死んだ」としても、宗教は「習慣」として残った、とか。織田信長が現代の精神病院で診察を受ければ、間違いなく「異常」と診断され、それに何の疑いもなく付き従った臣下はもとより「時代そのもの」が異常だったとも言える、とか。現代とて、100年先には「異常な精神性を持った時代だった」と診断される可能性があるが、「その中にいる間」はそれに気づくことは殆ど不可能、とか・・・やっぱし対話形式の本は、どこをどう掴んでいいのか分かりにくいから、印象に残る箇所を挙げるしかない。 最も印象に残ったのは、キリスト教にせよイスラーム教にせよ仏教にせよ、元々の始祖が考えていたことは共通らしいということ。曰く、それまでの各部族に伝わる個別の神々(多神教)は、人間にとって近しい存在だった。例えば病気は、「神が怒る」から生じると思われていた。しかし、閉鎖的な部族社会においては「神を怒らせたお前も悪い」ということで迫害等の対象にもなりえた。部族単位で見れば、紛争の原因にもなった。しかし、キリストのように唯一絶対の神を置き、既存の神々を「悪魔」とすることで、病気は「悪魔の仕業」ということになり、病気の者を見る目も「悪魔に憑かれたかわいそうな奴」という視点に変わる。何よりも、神の前には身分や民族の区別なしに平等ということで、紛争の根絶に繋がる。悪魔の概念は、元々は「心因性の病気の暗示療法」のために生み出されたと考えられる。だが、後世の後継者たちは、その二元論的視点を教義に盛り込み、始祖の意図とは違う宗教に仕上げてしまった・・・だめだ。対話のやり取りは、やっぱし薄っぺらい感じにしか書けない。 98ページにあるT氏の皮肉的な言葉から、一つ引いておこう。 「たとえば、九月十一日の事件のときに、おれは頭の中で、イエスをブッシュの横においた。ブッシュが古く見えたね。戦争だ、復讐だと国民を部族的狂気に駆り立てるブッシュの横で、《右の頬を打たれたら》というイエスは、まったく現代的だった。そこにあって少しも違和感を覚えなかった」 ネタとしてはオモシロイ本だが、対話形式じゃなけりゃ、もっと良かったと思う。 |
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| 2008年2月12日 曇 2月も中旬に入ったし、もともと今日は冬眠明けの準備運動を始めるつもりだったが、「今日はそんな気分じゃないの」で先送りにした。屋根張り=冬眠明けだが、その前に肩スソを交換しようと思っている。つーか、交換しないと無視できない量の雨漏りが起きるから交換は必須であり、それが「準備運動」。 して、例により毒劇物法規と基礎科学のお勉強。夜にふと思いたち、農研決算&次期予算をまとめた。今までは何の工夫もなくエクセルにぶちこみ、最後にソートしたりして小計を出して決算を出していた。小規模の団体会計とはいえ、何かメンドクサイ・・・出納帳の入力と連動して、科目別小計をまとめた決算書を出してくれるシートを作った。これで次年度以降は、わざわざ決算を出す手間がなくなる。 |
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| 2008年2月11日 曇か? 2日連続の長時間睡眠で逆にダルくなったのは覚えている。 |
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