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| 2008年2月上旬の作業日誌 | ||||
| 2008年2月10日 曇晴 16時過ぎまで寝た。人間がマジで冬眠できる生き物だったら、どんな世界になるだろう。 |
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| 2008年2月9日 曇晴 俺は、山形に来て最初の年に引っ越して、今の部屋に住んでいる。前のアパートは新築で、俺にはキレイ過ぎたのだ。俺はタバコを吸うから、壁や天井がヤニで汚れる。自分の部屋で気など使いたくない。だから、いい具合に汚れている今のアパートに引っ越した。だからってボロ過ぎるのも問題だが、今の部屋はキレイ過ぎずボロ過ぎず、「俺にはちょうどいい」。 同様に、こんな句がある。「白河の/清きに魚の/棲みかねて/元の濁りし/田沼恋しき」・・・田沼って人の腐敗した政治を嫌い、新たにクリーンな政治を望んだものの、いざ始まったら規則規則でガチガチになって生きにくくなり、前の田沼さんの頃を懐かしむという、江戸時代の風刺句だったと記憶している。これは別に、田沼のドロドロ政治の方が良い、と言ってるわけじゃなかろう。白河か田沼かっていう、そーいう二者択一的なもんじゃなく、いわば「中庸」的な、どっちかに偏らない柔軟な政治を望んでいる、と読むべきだろう。 今で言えば、公共哲学とかセンの思想なんかがそれに当るんだろうが、今回は、そーいう視点を持って経済学と生物学を学際的(?)に扱うエサを食った。 金子勝・児玉龍彦 2004.『逆システム学−市場と生命のしくみを解き明かす−』岩波新書. 個別の中身で書いてあることは、結構難しい。が、全体を通して言わんとしている事は、まさに「中庸」に相当することであろうと理解した。キーワードは「制度やルールの束」と「多重フィードバック」、そして「関係」。 個別の要素の分析から始めて、全体に到達する方法。反対に、全体の把握から始めて、個別の要素に到達する方法。いわゆる帰納と演繹。今までのアプローチは2つのどっちかに偏っていて、そっから導き出される法則などに縛られすぎていた。「事実」が法則に沿わなければ、「事実の中に法則を歪める要素がある」としがちであった。例えば俺が分かるネタで言えば、政府の介入が市場を歪めるから、究極的には政府の介入など無くなったほうが、健全な市場と社会が生まれる・・・っていう、リバタリアンな主張とか。しかし、そこで言われる「健全」という状況は、あくまでも「その法則に沿っている」という意味での「健全」である。 そんな具合で、今までは「法則」にばっかり眼が行き過ぎて、「事実関係」に眼を向けることが、方法的に難しかった。ある特定の要素Aが、ある特定の現象Bを引き起こしていることが分かった。じゃあ、要素Aを取り除けば現象Bは発生しないかってーと、生物学でも経済学でも、そんな1対1の対症療法的に簡単なモデルは「事実関係」としてはほとんどありえない。 人間の病気も似たようなもんだろうが、農業のことで言うと、ある病気Cが出たら、それに効果がある農薬Dを使えば病気を抑えられると思いがちだ。しかし、病気は少なくとも3つの要素が揃って、初めて「発病」する。すなわち、 @病原体(主因)=ナンタラ菌とかが植物に付着し、 A感受体(素因)=その植物が、その菌に対する抵抗力を持ってなくて、 B環境(誘因)=湿気が多いとかで菌の生育に適した状況である という、少なくとも3つが揃ってないと「発病」はしないし、逆に、この内のどれか1つでも欠けてれば「発病」には至らない。単に菌が付着しただけで発病するわけではない。同様に、菌が付着したら取り除けば済むわけじゃなく、残りの2つの要素も考えないと、また発病を繰り返すことになる。効果があったとしても、一時的なものに過ぎないというわけだ。 かつてはそーいう視点がなかったから、「病気Cが出たら農薬Dを使えば抑えられる」という硬直した防除の考え(これも一種の法則)から抜け出せず、効果があるとされる同じような農薬(例えば有機リン剤とか)ばっかしに頼るという対症療法を、誰も疑わなかった。しかし現在では、いわゆる「IPM」とか「耕種的防除」とか言われる、先の3要素に眼を向けた考え方が出てきている。実際に農薬を使うにしても、原体グループの違うものをローテーションすることで、薬剤耐性・抵抗性の発達に注意したりする。 経済や生物の場合はもっと複雑だ。にもかかわらず、今まではあまりにも「対症療法」的な方法に終始しすぎた。「事実」として「法則と違う結果」が出た場合に、今度は「法則を歪める要素」に眼が行き、「法則」あるいは「法則を導き出した方法」それ自体を疑うことがなさすぎた。個別要素に眼を向けることで得られた知見はムダじゃないが、その要素間の関係性にもっと注意しないと「事実」は見えてこないんじゃないか?・・・っていう、当たり前のことを言っているのが、今日のエサだった。 200ページに、そんな当たり前のことが書いてある。自然淘汰によって個体数が増えること=良いことと考えると、究極的には「ガン細胞(最後は自滅する)」が進化の理想型であるということになってしまうではないか、という話に続けて、 『たしかに、同じ種の中で遺伝的に競争力の強い個体の遺伝子が残っていく現象は、よく見られる現象である。たとえば足が速いライオンは、シマウマをたくさん捕食できる。だが、長期的な効果はまったく違う。一定数のシマウマが生息できなければ、ライオンは生存できなくなるからだ。競争的淘汰の長期的な意味は、一つの能力に依存するのではない。生態系において、他の生物と共存する能力、微生物への感染抵抗力、食物になるエサの幅広さ、種内部の共食いの制限など、さまざまな要因が総合的なフィードバックのしくみをつくることが肝要なのである。』 ・・・と。上記ライオンの話は、競争原理・市場原理主義一辺倒になりつつある世界の行く末を暗示しているようにも取れる。 |
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| 2008年2月8日 雪 例の力士リンチ死亡事件な。ついに親方が逮捕され、力士の父も「親方には本当のことを話してほしい」と言ってるのを見た。俺も、「この機会だから」包み隠さず話したらいいと思う。 もちろん俺は、相撲のことは全く分からない。でもね、「体育会系」って括りで言わせてもらいますと、この事件がきっかけになって、いわゆる「シゴキ」が全面的に禁止になるような動きが出てくるなら、それは違うと考える。 相撲に限らずプロの選手ってのは、「それでメシを食う」存在である。それでメシが食えるということは、常人には容易に到達・獲得できない、文字通り「並外れた」能力を持っている必要がある。そこらの素人が、ちょっとトレーニングしたぐらいのレベルで「プロ」を自称して試合をやっても、誰も金と時間を使ってまで観戦しようとは思えない、つまらない内容にしかならないのは自明だ。 ちょっと前にも書いた気がするが、人間は一般的に、自分で「これが全力だ」と思っていても、実際はさらに大きな「本当の全力」を持っている。その力は自分で思っている以上に大きく、場合によっては自分の身体そのものにも損傷を与えることもある。だから、普段「これが自分の全力」と思っているのは、「無意識にセーブした中での全力」なのである。トカゲが外敵に襲われた際、自分の尻尾を切って逃げるのと同様に、「そうする必要がある状況」がないと、「本当の全力」は出てこない。 その必要がある状況とは、油断など全くありえない「100%の真剣さを要する状況」である。応援団における俺の経験で言うと、「このままじゃ殺される」ぐらいの危機感なんかが挙げられる。その時初めて、それまでは「もうムリ」と思ってプルプル震えるながら沈んでいく脚が、不思議と上がるようになったりしたもんである。そして先輩もちゃんと分かってるから、「一度上がれば」キチンと休憩を取らせたり、マッサージするよう指示したりと、「壊れる」ところまでは行かないように注意していた。そーやって、ちょっとずつちょっとずつ、「セーブした通常の全力」を「本当の全力」に近づけていくことが、「プロのための」トレーニングであり稽古であろうことは、俺にも想像が付く。 とにかく、「自分で自分のリミッターを解除できる」人間はそうそういないので、一般的には「外部から迫る危機感」を感じる程度のシゴキがないと、トレーニング効果の伸びはすぐに頭打ちになってしまう=素人でも到達できるレベルにしかならない。 問題は、危機感を感じてリミッターを解除するに至る苦痛のレベルが、個々人によって違うということ。10単位の苦痛でリミッターが解除される奴もいれば、12になっても解除されない奴もいる・・・要は、「もーちょい叩けばもーちょい伸びる余地がある」奴と、「これ以上叩いても伸びずに壊れるだけの奴」の見極めが重要なのだ。見極めというと聞こえがいいが、「こいつはここまでか」として、一定レベルまで達しない奴を「見捨てる」ことである。相撲で言えば、力士の道を閉ざされることであるが、それを「かわいそうだ」として(じゃないかもしれんが)「カワイガリ」続けるから、こーいう事件になる。本当にそいつを「可愛がる」なら、見捨てるべき時に見捨て、別の道を歩かせるべきなのだ。それを、「努力すれば必ずできる」みたいな精神論に走っていくからイケナイ。精神論だけで突っ走ってるように見られがちな体育会系だが、体育会系こそ「肝心な所での冷静さ」を失ったら、取り返しの付かないことになる・・・まぁ、今回の事件の場合は、単なる「ウサ晴らし」みたいな側面もあるだろうが。 とにかく。競技の種類によるが、プロを目指す以上、一般的に「ある程度のシゴキ」は必要であると、俺は思っている。そしてもう一つ、「シゴキの前提条件」として必要なのは、親方なり先輩なり上に立つ人間の「限度を見極める目」と「見捨てる優しさ」である。「シゴキ」の画一的な禁止は、スポーツ全般のレベル・魅力の低下にしか繋がらないだろう。また、そーいう部分をヘタに隠さず、むしろ明るみに出して説明した方が、周囲からの理解も得やすいだろうと思われる。 |
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| 2008年2月7日 小雪 朝はAさんの屋根張り1棟。 午後になって何かあったが、何もなかったことにする。「王様の耳はロバの耳耳耳身耳意味耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳意味耳耳耳耳耳耳耳耳耳三井耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳意味耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳耳意味耳耳耳耳みみみみみみみみみみみみみみみm」と言って昇華しておこう。 何でも放出・吐き出し、可能な限り「身軽」でありたい身としては、あんましこーいう性質の情報は蓄積したくない。だが、稀にこーいうことがあると、残念ながら「人は一人で生きてるのではない」という、一見するとクサイばっかりの言葉が持つ暗黒面を、痛いほど実感させられてしまったりする。一人では生きられないからといって、多くの他者とつるめばつるむ程、その暗黒面に縛られ、ついには自分だけがそこから抜け出すことなど不可能になる。自身の意思に関係なく、自分が生き残るためには、暗黒の維持が絶対条件になってしまう。そうして、「会社ぐるみの偽装」とかに繋がっていく・・・団体・集団・組織とかってのは、程度の差はあっても、この暗黒面から逃れられない。 これだからイヤなのだ。昨日の流れに沿って言えば、団体として「つるむ」ことを重視すればするほど、(自分がトップなら別にして)自己の自己に対する否定を伴い、結果として個の抹消および組織への一体化を招く。いや、それが「気持ちいい」人なら勝手にやってくれればいい。ただし、その結果として生じる暗黒面の挙動が外部に影響を与えることのないよう、常に注意してもらいたいと願うだけである・・・そんなことができるなら、ハナっから「つるむ」こともない、か。 「それぞれが個性や主体性を持って」「みんな仲良く」は、どこまで両立可能か? |
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| 2008年2月6日 曇 俺のオヤジは、「絵描き」「画家」である。一方で俺は、「絵を描くことが嫌い」なお子さんに育った。もしくは、「他ならぬ画家であるオヤジ自身によって、絵を描くことが嫌いになるように育てられた」と表現することもできる。オヤジの影響が全くなかった場合の俺は、もしかしたら「絵を描くことが好き」なお子さんになっていたかもしれない。だから、「実は本来の俺って、絵を描くことが好きなのかもしれない」という可能性はあると言えるにせよ、少なくとも現時点における俺は、絵を描くのが嫌いであること、これは間違いない。絵を描いている人を見て、本人が楽しんでいるであろうことは理解できる。だが、絵を描くことの何が楽しいのか?どのへんが楽しいのか?ということは、「楽しんで絵を描いたという俺自身の経験」がないから、理解できない。 だからこそ逆に、「それって何?」ということで、こんなタイトルを付けられた本を手に取ることになった。 千住博 2004.『千住博の美術の授業 絵を描く悦び』光文社新書. 著者は日本画家で、俺のオヤジは洋画家だが、かつてオヤジから石膏デッサンを教えられた頃に言われていたことを、もう一度聞くような感覚を受けた。そーいう意味では、「私は絵を描くのが好きなんだけど、自分の絵との向き合い方が、いまいち分からない」とか行き詰った人にとって、一つのヒントを与えてくれる内容になっていると思う。だが、「絵を描く悦びとはどんなものか?」は、やっぱし全く分からずじまい。いや、「自分の中に生じた諸々の感動を表現する」「モチーフが放つ荘厳さを表現する」とかそーいうのは、絵を描くのが嫌いな俺でも分かる。しかし、もっと単純なところの「絵を描く悦びとはどんなものであるか?」という疑問には、全く触れられていない。 考えてみりゃ当たり前なのだ。そんなのは普通、教えられて理解できるもんじゃない。「悦び」に繋がる「楽しさ」「面白さ」というのは、全く個人的な感覚の問題で、その感覚がない人に理解できるもんではない。俺が「農業が好きだから農業をやっている」ように、絵描きも「絵を描くのが好きだから絵描きをやっている」。無論、職業として絵描きをやっていない人でも、絵を描くのが趣味である人や、学生時代に美術の授業が好きだったという人なら、「絵を描く楽しさ・面白さ」がどんなものか分かるであろう。だが俺は、絵描きの家に生まれながら、その感覚が分からないのである。そうである一方で、「絵を描く苦痛」だけがあるのだ。しかしそれは、「どーやってこの感情を絵として表現するか?」みたいな意味での「生みの苦しみ」的な苦悩ではない。「描き進める上で発生する苦痛」ではなく、俺の苦痛とは「描くことそれ自体の苦痛」である。まぁ一種の「トラウマ」である。「心的外傷」とか、「ぴーてぃーえすでぃー」とか言われるものに近いと思っている。 俺には、絵を描いてオヤジから褒められた記憶がない。もっと言うと、俺には「おえかき」を許された時期がなかった。物心ついた頃、まだガキだった俺の前にあったのは「美術」であり、「おえかき」ではなかった。いや、たぶん小学校に上がる前ぐらいには「おえかき」も許されてたんだろうが、それ以後の記憶が強烈すぎて、「おえかきの楽しさ」すら思い出せない。普通、絵を描くのが好きな人は、小さい頃から「おえかき」が好きで、学校でも美術部に入ったり、社会人になっても趣味で絵を描いたりするんだろう。当たり前だが、絵を描くという行為は、呼吸や食事のように「生きていく上で必要な行為」ではない。「自分自身、そうするのが好きだから」絵を描くのだ。その中でも、「もっと上手に描きたい」とか「自発的に」思う人が、先生の教えを受けようと思う。学校の授業を別にすれば、「強いられて絵を描く」人などいない。 しかし俺にとって、オヤジの美術指導は、全くもって自発性のない文字通り「強いられた」ものだった。小学校の夏休みに絵の宿題なんかあれば、俺が思ったとおり描くことなど許されるはずもなかった。「ここが悪いあそこが悪い、こう直せ」と、俺が描くことを、すなわち「俺自身の自己表現」を、ことごとく潰され、否定され続けた。未だに覚えているが、水彩絵の具で描いた絵をシャワーで全部洗い流され、文字通り「俺の色」を消され、「オヤジの色」で塗りつぶされた記憶もある。中学校になって始まった石膏デッサンにしても同じことで、「絵を描くと叱られる、否定される」という印象ばっかりが残っていった。 例え大人の目から見て未熟でも「上手に描けたねぇ」とか言われることは、「おえかき」という「自己表現」に対する「他者からの自己承認」の経験である。それは幼児〜学童期における人格形成にとって重要な経験の一つであり、それを原体験として、人は「他者から承認される自己」に、価値や喜びを感じるようになれるのだ。 もちろん、「おえかき」を評価することだけが「承認」ではない。他のいろんな要素とて同様に「承認」の機会になりうる。俺も、「おえかき」以外の部分では「承認」を受けていたに違いない。だが、「おえかきにおける他者からの自己否定」、それも「最も身近な他者である親からの自己否定」が強すぎて、他の要素での「承認」を相殺するのみならず、「否定」ばっかりが残った形になったんだろうと思っている。一言で言えば、「おまえはダメな子」と言われ続けたのと同様の効果が現れたんだろう。こうなると、もはや「他者からの承認」は期待しなくなり、「誰もボクを認めてくれなくてもいいよーだ。ボクはボクで自分を承認するもんねー。」という、他者がどう見ようが思おうがソンナノカンケーネー的な人格が形成される・・・それが、今現在に至る俺であると勝手に理解している。ともあれ、俺が画業を継ぐことなど全く考えられなかったし、「絵描きのニオイ」が染み付いた生家に残ることさえ拒絶した。 農業の後継者不足も、根っこは同じである。一方的な強制・命令は、大なり小なり反発しか生み出さない。また、家業であるからといって、一方的な「指導」も控えるべきであり、自発的に興味関心を持ってくるまで待つことである。それで子供が興味関心を持ってこなかったのであれば、そういう姿を見せられなかった己自身をこそ悔やむべきである。 ただし、ごくごく早い段階から他の世界を遮断し、「徹底した指導」「洗脳」をするならアリかもしれない。それを、「本人の選択の余地を潰すことになる」と判断し、一定の時期まで待ってからの指導を始めたのが、俺のオヤジである。まぁそれが、オヤジなりの「優しさ」だったんだろう。だが、少なくとも俺個人の経験から言うと、半端な興味関心しかない時期からの「指導」は、「洗脳」よりもはるかに残酷であると言える。その結果出てくるのは、「絵描きじゃなく、こっちの仕事がしたい」なんて相対的な判断じゃない。「絵描きなんか、絶対にしたくない」という、完全な拒絶・排除である。 かくして、俺の自己表現の手段として「描く」はなくなり、代わりにこうして「書く」ことが俺の自己表現になった、と。 ・・・ぜんぜん、本の感想じゃねーな。 |
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| 2008年2月5日 準金銭消費貸借契約 曇雪 福島:晴 売掛債権について先月末のコンサルでも指摘されてたし、これ以上遅れるのは問題なので、売掛債権の支払いについて「口約束」ではなく「支払金額と期限&遅延損害金付きの契約」をしてもらいに福島へ。元々「年末には払う」という話が、さらにもう一回先延ばしになっている。基本的にケーヤクとか堅苦しいことはメンドクサイから嫌いだが、必要ならばそうも言ってられない。社会勉強のいい機会でもある。 朝の路面はバッチリ凍結でノロタラが多く、飯豊から米沢市街地を抜けるのに1時間以上を食った。「別な路線」を進んでいる分には問題ないんだが、同じ路線を進んでいる以上、先行車がどっかで詰まればその影響は後続の全車に及び、「ヘタクソな1台」が遅れるおかげでみんなが遅れる。玉突き事故と同じで、同じ路線を進んでいる車の数が多ければ多いほど、影響は大きい。「カネは天下の回り物」とはよく言ったものだが、俺が持つ100万以上の売掛債権の現状は、正にそれと同じ状況である。遅くても良いから「動いてれば」なんとかなるわけだが、「止まってしまう」=不良債権化すると、もはやどーしようもない。ただしこれは、分業・専業を基本とし、必要な財の取得については、「他の分業者との貨幣を媒介した交換」を前提とする経済だから発生すること。自分で必要なものをあれこれ生産していれば、そもそも「同じ路線を並んで走る」という必要性が発生しない。 まぁとにかく。事情の説明は受けているが、つまりは「払う気はあるんだが、先方の支払いが滞っていて、それが入らないと、うちも払えない」という、文字通りの渋滞である。無論、入金は他からもあるにせよ、他の支払いが先になされ、「支払期限に関するマトモな契約がない」俺に対する支払いが遅れるという状況が発生している。現実問題としては、支払いを滞らせている所が悪い。だが根本的には、支払金額と期限その他について合意した「マトモな契約」をしていなかった俺の自己責任も否めないし、その意味での勉強はさせてもらったものの、その「勉強代」として100万は大きすぎる。 ネットで調べたり、独立時に借りた制度資金の契約書だのをひっぱりだし、堅苦しい文言を駆使した「契約書」なるものを昨日のうちに作っておいた。題して「準金銭消費貸借契約書」。似たようなのに「債務承認弁済契約書」ってのもあるらしいが、それだと「購入代金の一部が未払い」っていうまんまの形。今回作ったのは、「俺が金を貸している」という形にする契約書。こーすることで、同じ金額でも「未払いの売掛金債務」が「借入金債務」になるから印象が変わるばかりでなく、その他扱いも変わってくる・・・ジツニオモシロイ。 して、「借金」になったわけであるから「保証人」も設定したいところ。「誠意を見せてもらう」意味でも、債務者たる「会社という法人」に対する連帯保証人として、個人としてのOさんに一筆をお願いした。で、この債務が完済しない限り、当然に今期の取引はナシだが、もし今期も取引を継続する意思があるんであれば、@継続的売買に関する契約書を作る A代金は先払いとする っていう話をした。 そんな状況ではあるが、それはそれとして、せっかくだから以前に話のあった二本松の物件を見に行った。国道4号から南へ1km弱入った、やや高台に位置する鉄骨ハウス。うち1つは使用中なんで、対象物件はその他未使用分、面積は概算で300坪強と思われる。2枚目をもうちょっと左(東)に振ると、安達太良山が一望できるロケーション。 まず、山形からすれば同じ時期とは思えないほど雪がない。緯度から言うと喜多方・会津と同じぐらいだが、先日茨城へ行くときに見たその一帯と比べて、同じ福島県内でも二本松の積雪は極端に少ない。戻ってから確認した土壌図の解説いわく、二本松という場所における、安達太良を含む磐梯山系とは、山形県と宮城県にとっての蔵王山系と同じような働きをしているらしい。すなわち、西から来る雪雲は、磐梯山系が「壁」になることでブロック・滞留させられる⇒喜多方・会津辺りには多めに雪が降る⇒磐梯山系を越えるころには雪雲として弱くなる⇒同じ時期でも、喜多方・会津に比べて二本松の積雪は少なくなる、と。その代わりに春の山おろしは強そうだが、雪も多いわ風も強いわの飯豊に比べれば、雪がないだけマシとも言える。しかし、その分「ドキドキ感」のスリルが少なくなると思われる。 ここは土耕としては使っていないため、固められてシートが被せてあり、触った感じでも明らかに周辺とは違う砂っけの強い状態。土耕で使うにはどーだか。土壌図上では細粒灰色低地土壌の杉田統に区分され、粘質〜強粘質の土壌となっている。粘質ったってグライじゃないし、すぐ背後には腐食に富む適潤性褐色森林土壌の安達U統が広がる位置である。そもそもハウス自体が高台に建っていることもあり、水はけが極端に悪いという可能性は低いと思われる=畑地としての根本的な問題に悩まされる可能性は低いと考えられる。 何にせよ、まずは債権回収が先である。 |
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| 2008年2月4日 曇 毒劇物個別の特性に関するお勉強は、だいたい一通り終わった。つーか十分に覚えたわけじゃないが、1回は終わったことにした。覚えるべき情報の性質としては、歴史の年号「だけ」を覚えるみたいなもんで、少なくとも俺には継続してやってられることではない。法規・基礎化学の2巡目をすることにして、個別の性質についてはそれと同時進行でちょっとずつ目を通していくことにした。 しっかし、関東は雪に弱すぎ。かく言う俺も元関東人ではあるが、東北人になって6年もすると、あの程度の雪でスリップ事故だの転倒してケガだのが信じられない。 |
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| 2008年2月3日 曇 倖田來未。いや別に、あーいうケバいのは好みではない。ましてプレミアAのクリステルを見てしまった後であるから余計にである。だが、「堂本兄弟」において、彼女は一ついいことを言った。 スーパーで水菜を買ったらしい。580円とかで驚いたらしいが、何か生産者の顔写真みたいのでもついてたとのこと。それを、「私が作りました。安心してお買い求めください。」的なものと理解し、そーいうのが付いてるから高いのだろうと思ったらしい。ただしそれを見た彼女の感想は、「あんた誰やねん?!」とのことであった・・・ まっとうな反応じゃないかと思う。その農産物につき、個別具体的に誰が作ったのか?ということについて、恐らく大多数の消費者は全く関心がないと思われる。逆に、そこまで関心がある人は、スーパーなんかで買わないだろう。個別に産直契約でもして、指定の農家からしか買わないであろう。 大多数の消費者が、個別の生産者に興味を持っていない。それについて悪いこととは全く思わないし、当然と思う。問題の「メタミドホス」じゃないが、たいていの場合「国産」「中国産」ぐらいの括り、もうちょっと行っても「○○県産」ぐらいまでしか見ていないだろう。だからこそ今回の冷凍食品問題についても、「あの工場のもの」じゃなく「中国産」っていう単位で、「輸入禁止を!」とかのアホな意見が出てくる。国家権力を発動して輸入禁止する必要などない。そんなに気になるなら、買う時に選ばなきゃいいだけのこと。選ばない人が増えれば売れないわけで、禁止なんかしなくても必然的に輸入は減るか、選んでもらえるような品質に変わっていく。輸入禁止とか言ってる人は、単に自分が買い物をする時に、自己責任で「生産地を確認する手間」をメンドクサがっているだけであろうと思う。そこにあるだけなら、あなたには何も影響を及ぼさないのに「輸入禁止」とか言うんだから、そういう理由しか考えられない。 同じことで、個別生産者表示についても、本質的には消費者向けで表示してるわけじゃないと思っている。例えば残留農薬が検出されたとかの問題が発生した際に、「○○県産」とかの大きすぎる括りよりも絞り込んだ責任・問題の所在を明確にするとか、そーいう目的が大きいと思う。消費者に対して個別生産者の顔とかをアピールするという対外的な意図は、実質的にはほとんどないだろうし、あったとしてもほとんど功を奏してないと思っている。 であるから、包装や印刷などに要する金をムダに使って、小売店頭での詳細表示までする必要はないと考える(例の水菜はそれで高かったわけじゃなく、原油価格関連だろうが)。せいぜい、生産者個人名を記載しておいて、何か問題があった時に個別対応が取れるようにしておけばいいだけのこと。語弊を恐れずにあえて言えば、消費者は、肥料がどーだの農薬がこーだのという詳細情報を、個別の農産物についてまで「知る必要がない」。無論、「知りたいのなら」簡便に確認できるような公開体制はできているべきだと思う。だが、見ても分かりもしない&興味もない情報を羅列すれば「安全安心」だというのは、何かズレてる気がしてならない。そーいう意味で倖田來未は、マトモな感性の持ち主と言えるのではないかと。 |
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| 2008年2月2日 曇だったか 二日酔いってほどでもないが、やたらダルかったのは覚えている。年々、量が飲めなくなりつつある己を再確認。 |
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| 2008年2月1日 苗発注 雪 2月に入った。ぼちぼち冬眠明けってことで苗を発注。経営規模を2棟に削減した代わりに、今まで40cmでやってきた株間を35cmに詰めることにした。つーか組合じゃその位の株間が標準的な感じなわけで、特別に実験的なことをしている自覚はない。ただし、縦方向の株間は詰めても、3間半に4ベットとか「横方向」まで詰めるのは、確かに一般的ではない・・・だが、今期以降の経営指針は、「単位面積当りにおける経営の質の向上」なわけで、このぐらいは当然のことと思っている。悪いが、「俺がやればできないことはない」という根拠のない自信は相変わらずである。いや、そのぐらいじゃなけりゃ自営なんかやってられん。 夜は農研三役会で飲み。 |
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