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| 2008年1月中旬の作業日誌 | ||||
| 2008年1月20日 曇 「石の上にも3年」という。「ブスは3日で慣れる」というのもある。 3年とまでは行かないまでも3日どころじゃ済まなかったが、どうやら俺の中でも「化学変化」が起きつつあるらしい。化学式だの何だのを見ても、頭痛いという感覚が薄れてきた。日々そーいうのばっかし見てるから、化学の言葉が情報あるいは脳に与える刺激として「異質なもの」ではなくなり、「当たり前」になってきたんだと思う。かといって噛み砕いて理解できてるかっつーと、そんなことはない。 まぁとにかく「慣れ」たみたいだし、教科書は一通り眺め終わった。もう一巡する前に、補助教材に使えるかと思って買った本を開いてみた。 平山令明 2005.『暗記しないで化学入門-電子を見れば化学はわかる』講談社ブルーバックス. いわゆる「学生の試験対策」に使えるような「簡単な覚え方」を教える中身ではない。化学ではいろんな反応が出てくきて、あれとこれがくっついて・・・とかの説明がたくさん出てくる。それらについて、「そもそも、原子と原子はどーしてくっついたり離れたりするのか?」という所に絞りこんで話を進めている。そしてタイトル通り、この本の主役は電子。具体例としていろんな反応式は出てくるものの、それらの一つ一つを「こーやって覚えなさい」という感じではない。その反応の中で電子はこーいうふうに動いていて、だから、全体としてはこーいうふうにくっつくことになる、という説明の道具として反応式が使われているだけという印象が強い。全体としては、電子を主人公にした物語として見ることもでき、各反応式は「主役たる電子が活躍する個別のシナリオ」とも言える。 まぁ、「様々に絡み合った複雑なシナリオ」になると、まだまだ「電子物語の読解力」が足りない俺にはついていけない。それでも、「とにかく電子が動くから、化学反応が起こるのね」っていうことと、「電子の動きに注目すると、化学反応式も違って見える」ということは分かった。 理系単行本のメジャーどころである「ブルーバックス」は、俺にとっては普段は全く縁がない「外国語」である。「化学の言葉」という種類の外国語を理解するためのポイントは色々あるんだろうが、少なくともこの本は「電子を見ろ」というアドバイスをくれる。しかし、今回はたまたま、化学に対する耐性ができていたから読みきれたようなもの。多少なりとも「慣れ」がない人が読むのであれば、やっぱし苦痛だろうと思う。 |
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| 2008年1月19日 サイト引っ越し 晴曇 今まで使ってたレンタルサーバーのサービス変更っていう連絡を受け、引っ越してきた。いや別にそのまま使っても良かったんだが、せっかくなんで。引越しついでに独自ドメインも取ってみた。マトモな企業・商用サイトでもないから不要なんだが、これまたせっかくなんで。 今まで取る気がなかったから当たり前なんだが、ドメインって種類によって値段が違うのを初めて知った。「.com」だと年間1000円未満からあるが、「.jp」だと年間3000円ちょい、「.pl」ってのだと1万超えてたり。 ドメインは、今じゃほとんど区分の関係なしに使われてるみたいだが、「.comは商用」とか、一応は用途の目安がある。で、少なくともここは商業ベースのサイトではないし、何よりも単にメジャーすぎるという理由で「.com」は避けたかった。で、今回取ったのは「.info」ってやつ。俺の中では、出てきた選択肢を見て「そーいやそんなのもあったな」とか思ったぐらいの認知度。しかし、「うぞーむぞーの情報を、見境なく放出する」という当サイトの趣旨にはちょうどいい。で、値段も安いんでこれにした。 名前の方は、3つ悩んだ。 nihon-nouen.info=昨年末に変えたことだし、屋号から「日本農園」。 agrik.info=まんま「農業のアグリ+耕生のk」、及びゴロで「アグリ系インフォ」とか偉そうな読み方もできる。 nhenhenhem(ポル語:無駄口).info=「にぇにぇにぇぃん」っていう音が面白い&意味が「無駄口情報」でピッタリ。 結局、屋号バージョンとポル語バージョンは長いんでやめた。 つーことで、今日からwww.agrik.infoでの「自己満足的放出活動」を開始する。 |
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| 2008年1月18日 雪 午後に税務署へ。やはり時期が早すぎるのか、いつもは1階にある「申告特設コーナー」がない。普通に2階の事務室に上がって申告書提出。あとは5万ちょいの還付を待つのみ。今回の申告まで5年間、俺にとっての税務署とは、還付金を貰うための「楽しい場所」であった。だが、残念なことに1年後には「小憎たらしい場所」へと変わる。なぜなら今年の冬は無職であり、源泉徴収付きの給与所得がない=還付される「税金の払いすぎ」など発生しない、から。つーかそもそも、今回で言えば8万近い源泉徴収に対して5万ちょいの還付だから、2万ちょいの税金は間違いなく払っている。それでも、「知らないうちに引かれている」のと「明確に意識して払わされる」のでは、心理的な負担感がぜんぜん違う。この辺が、サラリーマンと自営業者の税金に関する感覚の違いだったりするんだろうが・・・何にせよ今期は、今まで以上に「有効経費の増額」を目指し、課税所得額を抑える工夫をしないといけない。っても、源泉徴収が無関係になるからには、ナンボかは払わされることになるだろうが。 有機化学をかじるにつけ、何で高校の化学は、分子の結合があーだの温度と圧力がこーだのモルがどーだのと、コマゴマして面白くもない所から教えるのかと思う。いや、そーいう基礎理論的な所が理解できなきゃ有機化学も分からんのだろう。それに、「面白い」という感覚も人それぞれであるから、「モルって聞くだけで、すげぇ興奮するんです」っていう人もいるだろう。でも、高校の化学が有機化学から始まってたら、俺ももう少し、化学をマジメに勉強してたかもしれない。なんつーか、「木を見て森を見ず」的に言うなら、化学の教科書は「まずは個々の木を見せ、その後で森の全体を見せる」みたいな順序になってると思う。逆もアリじゃないかと。まずは森全体の美しさを見せ、さらに興味がある奴には、その美しい森を構成する木々を個別に観察する方法を教える、とか。ついでに言えば国語の古文・漢文なんかも同じ。「副助詞」がどーだの(「腹上死とは違う!」と教わった)、「レ点」がこーだの、そんなのは俺にとって全く面白みのないものだった。現代語訳が作れる学者なんか腐るほどいるんだから、まずはその文章の現代語訳を読ませて、当時の社会的・文化的背景とか、あるいは教訓的なこととか、そーいう全体像に触れて興味を持つことがなければ、細かい文法など覚える気にもならない。 いや、だいたいにおいて学問ってものの基本的な進め方が、そーいう「まずは理論」みたいな形になってんだろうし、「学者」レベルではそれが適切なんだろう。しかし学者ってのは「学者バカ」とか言われるように、そもそも「学問が苦にならない」という特殊な人間である。そーいう特殊な人間に適合した特殊な進め方を、学校教育という「普通の人間」が集まる現場でも適用するから、学校の勉強はつまんねーものになる。無論、いろんな学者がいるおかげで、いろんな発見とか開発とかがあって現在の世界ができてるのは事実。でもそれは「一部の特殊な人間」がいれば済むことであって、みんながみんな学者になる必要はない。 特殊な人間が目撃した(あるいは作り出した)世界の全体像を知るのに、わざわざ麓から同じ道をたどって険しい山を登らせる必要は、少なくとも俺には理解できない。既にあるんだから、山頂からの写真を見せりゃいいのである。それで大多数の「普通の人間」は、「うおーすげー景色だなー」「なるほどこんな景色が見られるのか」って満足する。しかし、その中にごく少数は「険しい道らしいが、俺も自分の足で山頂まで登って自分の目で見たい」って奴が必ずいる。そーいう奴こそ、学者になるべきである。そして、そーいう奴に対して、細かな「登山の装備について」「雪山登山の基礎と注意点」みたいな「理論」を教えればいいのである。最初は、人が撮った写真に魅せられて登るだろうが、そのうち「まだ誰も見ていない、新しい景色を探したい」っていう風になるだろう。それこそ、学問的探究心。 そーいう観点で言うと、学校教育とは、そもそも「自分で山を登るつもりがない人間」に、登山の方法論とかを教えてるようなもんだと思う。興味がないんだから、マジメに聞くはずがないし、理解しようという動機も出てこない。つまらない。こーやって、学問とかその成果の美しさってのは、普通の人間には「よく分からない」「勝手にやってれば?」的な遠い存在になっていき、「学問好きの特殊な人間」との格差が広がっていく。だから、一方ではノーベル賞とか取るような学者が生まれる世の中で、怪しげなカルト宗教(あるいはカルト農法)が幅を利かせたりするんじゃないか? と、文系のグチ。 |
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| 2008年1月17日 曇雪 「そうだ、税務署行こう」 古い新幹線のCMじゃないが、ふと思った。還付申告なら早めに行ってもOKなんだし。が、念のためもう一回チェックしてみたら、減価償却の未償却残高と貸借の期末残高が一致しない・・・車の除却処理での仕訳ミスがあったことが判明。提出前に気づいてよかった。ついでに、「本年中における特殊事情」欄が空欄ではもったいないので、経費増額にまつわる説明を「それっぽく」記入しておいた。 |
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| 2008年1月16日 曇 アキレス腱、ヒザ関節、もも、腰、肩、二の腕と、一昨日から久々の作業で各所バキバキ。冬眠中は動くもんじゃないってことを身にしみて感じつつも、昨日終わらなかったリブラント片付けないと後で除雪できない。午後から出て片付けやって完了。屋根はがしは、元々はさらに雪積もってからの予定だった。積雪の少ない状況での作業が、いかに能率悪いか実感させられた。まぁ何にせよ、これで1棟分の片づけが先行したんで残りは1棟。 って、思い出した。3棟が2棟に減ったから、ハウスの名前を変えねばならん。3棟を順に「リア・ドナ・ディゾン」としていたわけで、おとなしく「リア・ディゾン」とするか・・・安易だ。1棟減ったからといって、実に安易な命名にすぎる。いや、そもそも「リア・ドナ・ディゾン」も、十分すぎるほど安易ではないか?という疑問もあるだろう。だが、キチンと「インリン・オブ・ジョイトイ」と比較検討してから命名している。インリンを選考から外したのは、@2棟目が単なる「オブ」になるのは寂しいAハウスが「M字」に曲がったりすると困るという、感性と安全性に配慮した結果なのである・・・張替えをメドに決めよう。 毒劇物の試験勉強は有機化学のエリアに入った。モルと同様に高校で習ったはずだが、全くもって授業の記憶がない。そもそも、1年生の段階で「文系しかありえん」と決めていた俺が、2年生になって理系クラスに在籍してたこと自体がおかしいわけで、化学の授業をマトモに聞く理由がない(生物の授業はそれなりに聞いてたが)。 ただ、今回マジメに教科書を眺めてみると、有機化学ってのは理系学問ってよりは「言葉」とか「文章」に近い印象を受けた。ナンタラ基にはこーいう性質があり、カンタラ基はこーいう性質があり、組み合わさるとこんな性質になり・・・みたいな。色々と組み合わせると、それこそ無数の化合物ができる。それらは独立して別々に存在しているわけでもなく、ちょっとした反応で、似通った別の化合物に変化したりと「つながり」「変化の流れ」みたいなものがある。ちょうど、それぞれ個別の意味を持つ無数の単語を組み合わせて、一つの文章を作るのと同じ感じだ。組み合わせには一定の法則性みたいのがあって、この単語とこの単語は一緒に使われやすいが、これとこれが一緒に使われることはほとんどないとか、そーいうあたりも言葉に近い。 また、化合物の正式名称を聞くだけで、その化学式を知らなくてもどーいう化学構造の物質なのか予想できるあたりは、ポル語と似ている。英語の場合、例えば「ナイト(夜)」という単語のスペルを知らない人に「ナイト」という発音を聞かせても、「night」というスペルの「gh」は書けない。その点ポル語は、「スペルにはあるのに発音しない」とかいう部分がない(いや、一部あるけどそれも決まってる)から、発音を聞けばスペルの予想がつく。例えば「nhe」は「にぇ」、「cha」は「しゃ」とか決まってるから、組み合わせ単位の発音さえ覚えてしまえば、単語全体のスペルを覚えること(=単語の書き取り練習)はほとんど必要なく、発音さえ覚えれば書き取りもOKということになる。化合物の命名法も同じで、官能基の有無とか結合の形とかで「どう読むか」が決まっているらしい。だから、その命名法のルールを覚えてしまうと、化学式全体を忘れても、正式名称を聞くだけで大体の予想がつくみたいだ。 まだ始めたばっかだが、有機化学ってのは思ってたよりオモシロそうである。 |
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| 2008年1月15日 晴曇雪 午前中は先日の風でやられたHさんの屋根はがし&屋根張り手伝い。午後は自分とこで屋根片付けの続き。屋根自体は片付け完了。明日、リブラントを何とかすればとりあえずOK。なかなか撮影できない、風に舞う屋根の貴重映像。 さて、続き。 現時点で存在している人間だけでなく、未来世代の人間をも考慮に入れるという、「通時的な意味での人間」の観点。「今、現に生きている人間」は、「未来の人間」のことも考えて行動するべきだという。まぁ、なんとなく同意できそうな気がする。 割り切って「神」の立場に立ち、「人間の生存とは、良いこと」という価値判断を下したならば、「世代をつなぐという形で、人間が永遠に生存できる条件を維持していく」というのも、「良いこと」になる。また、「神」の立場だというのなら、「未来の人間の生存について考えた上でなら」という絶対条件付きで、自然の「絡み合い」に手を加えることも、「悪いこと」ではなくなった。 「通時的な人間存在全体」という点では、現時点で存在している人間も「未来の人間」も、「人間存在全体を構成する一部」である。それは先に見た、「人間とは、自然の一部である」というのと、意味構造的には同じ。そして「良い悪い」といった「価値判断」は、自身の外部に存在する対象(実際にそうじゃなくても、外部と仮定した対象)に対して可能となるってことも既に見た・・・だとすると、現時点の人間が、「未来の人間」にとって「良いこと」という価値判断をすることは可能なのか?もし、それが可能というのなら、それってのは、現時点の人間と「未来の人間」の間には連続性がなく、現時点の人間が、「未来の人間」を、自身の外部的対象として見てるってことにならないか?いずれの人間も、「人間存在全体に含まれる」はず。つーことは、「未来の人間について考える」という絶対条件の設定それ自体が、現在と未来の連続性を断絶させているのではないか? 時間軸上で見るなら、現時点の人間が先にあり、「未来の人間」は後にある。現時点の人間は「親」に相当する。「親」は「子」を、自身の外部的対象とみなすから、子が「こういう風なら良い」「こういう風だと悪い」と判断できるのか?それが行き過ぎると、ウザったいパターナリズムになるわけだが。 親と子は違う。別の存在である。親にとって子が外部的対象であると同様に、子にとっても親は外部的対象である。いや、「幼児にとっての親は心理的に一体のものでありウンヌン」とか心理学的な点は置いといて。 同様に、現時点の人間と「未来の人間」は、やはり別の存在である。「自分の子供、孫」ぐらいの短期レベルで見れば「双方向」の影響があり、「一体性」みたいなものを実感できるだろうが、10世代20世代ぐらい先のレベルになると、もはや相互に影響のない「外部的対象」になる。そして、もっとずっと先のことを考えてみる。身もフタもないことを言えば、ウン千万だかウン億年だか後には太陽の膨張とかで地球の存在自体がヤバくなるらしい。そうなったらもう「未来の人間の生存を考えた自然環境」とかのレベルじゃなくなる。本当に「未来の人間」のことを考えるなら、「太陽系外惑星への移住検討」とかになってくる。だが、そのぐらい先の人間ってのは、現時点の人間の感覚からすれば完全に「外部的対象」だろう。どーなろうと、知ったこっちゃない。でも、「通時的な人間存在を考える」なら、ソンナノカンケーネーとは言えないはずで・・・ かなり乱暴に考えてきた感は否めないが、現時点で生きている人間が、現実的に「実感を持って」想定できる「未来の人間」っちゅーのは、せいぜい2〜3世代先までだろう。その程度先のことなら、現在の人間との「連続性」「一体感」を実感できる。実感できる「未来の人間」を考えるなら、現在の人間の「責任」をも考えられそうだし、「未来の人間に対して責任ある行動」も取れそうだ。 だが、「子供や孫といった未来の人間のため」とされている「環境保護」は、そうそう短期間では効果を表さない。ヘタすると、目に見えて効果が分かるのは、現時点の人間にとって「連続性」「一体性」を実感できない、「さらに先の人間」の世代になるんじゃないかと思われる。例えば、温暖化の進行を現在の世代で「食い止めた」としても、「自分の子供の世代」程度の未来では、おそらく現時点の環境とほとんど変わらないだろう。「孫の世代」まで待ったとしても、現時点と比べて驚くほど違った環境になるとは思えない。「大気中の二酸化炭素濃度の顕著な上昇は、イギリスの産業革命あたりに起源がある」という話が事実だとすれば、その頃と同じ水準の濃度まで下げるには、これまでの200年前後と同じかそれ以上の時間を要するであろうことは容易に想像できる。 こないだ読んだ、『戦争における「人殺し」の心理学』によると、物理的な距離や心理的な距離が遠ければ遠いほど、人は人を「殺しやすい」ということだった。環境を悪化させるということは、「未来世代に対する殺人である」と考えると、そこに存在する「時間的距離」は、「殺しやすさ」に貢献していると見ることもできる。現時点からの時間的距離が遠ければ遠いほど、「自分と同じ人間」という感覚は薄れ、どーなろうと関係ないと思えるようになる。 だからたぶん、人間が認識できる「現実的な未来」が到来するまでの所要時間と、「環境保護活動の効果が現れる未来」が到来するまでの所要時間の差が、「は?環境問題?俺に直接影響がなけりゃ、どーでもよくね?」という態度に繋がっていると思う。感覚としても、独身者<子供がいる人<孫がいる人という順で、環境問題に対する問題意識が大きくなる傾向が見られる気がする。さらにその中でも環境主義者というのは、一般的な人が認識できるよりも先の未来世代までを、「連続性」「一体性」を持った現実の問題として実感できているのかもしれない。だとすれば、一般的に認識できる未来の到来と、環境保護の効果が現れるまでの「時間的距離の差」を縮めていけば、環境問題について実感を伴って考え・行動できる人が増えるような気がする。「時間的距離の短縮」のためには、「人間の長寿命化」「植物生育促進技術の向上」「物理的・化学的技術開発による環境浄化スピードの向上」なんかが考えられる。逆に、そーでもなければ、環境問題ということについて本気で考え・行動するというのは、やはり一般的に難しいことだろうと思う。また、格差社会の進展により「経済的に見て、結婚など考えられない」人や、価値観の多様化により「そもそも結婚したくない」人や、「結婚しても子供はいらない」という人などが増加しているらしい。こうして、現在と未来の距離は着実に遠ざかっている。環境問題を本気で考えるならば、こういった社会的条件の見直しも必要だろう。 そして俺は独身者であるし、遠い未来について実感を持って考えられる人でもない。よって、「は?環境問題?俺に直接影響がなけりゃ、どーでもよくね?」という風にしか思えないのであります。 |
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| 2008年1月14日 曇雪 午後にFさんから電話。「屋根が落ちてる」とのこと。たぶん昨日の風でやられたんだろう。 落ちてるってか、西半分が東側にエッコラセしている。片付けの時にリブラント落とされてムリヤリまとめた&縛ったマイカが全部ボロボロだったのが原因だろう。しかも、単にエッコラセなら簡単なんだが、東側の北半分はリブラントがズタズタに寸断されて複雑骨折状態・・・手のつけようがない。しゃーないから切ってしまうことにした。てっぺんで縦カットして、東半分は小分けにして夕方までに50m相当を片付けた。冬眠中の体にはこたえた。 昨日のを読み返したら、何か読みにくい。再確認してみる。 環境主義者の主張には、「人間とは、自然の一部である」という前提がある。これは「人間とは、自然現象総体に含まれる部分的現象で、自然内現象の一つである」と読み替えることができる。この場合の人間は、自然と区分されない存在、すなわち「自然内現象としての人間」である。だから、良いとか悪いとかを抜きにして言えば、「人間の絶滅も生存も、自然現象の一つ」と表現できる。 自然とは、いろんな自然現象・要素が複雑に絡み合った総体であり、その「絡み合い」によって成立している。無論、「自然内現象としての人間」も、その絡み合いに含まれている。 自然を大切にするということは、「自然現象・要素の絡み合いの、ありのままを大切にすること」と同義になる。つまり、「自然内現象である人間」の都合に合わせて「絡み合いに手を加える」ことは、「自然を大切にしていない」ということになる。例えば、「便利な暮らしがしたいから、省エネもエコも無視して、化石燃料をバンバン燃やして生活しよう」という立場がある。そこには、人間と自然は別のもので、自然がどう変わろうが壊れようが人間には関係ないという、「”自然外”現象としての人間」という前提がある。だから必然的に、「”自然外”現象としての人間」にとって都合の悪い「絡み合い」を壊しても悪いことではないし、むしろ良いことである、という考えに繋がっていく。 「自然内現象としての人間」を前提とする環境主義者からすれば、「”自然外”現象としての人間」という前提が「悪い」とされる。その前提こそ、「都合が悪いから」といって自然の「絡み合い」を壊し続け、結果として「自然内現象としての人間」の生存をも脅かすようになった元凶であると見るわけだ。よって、その態度を改めるべきだという主張が生まれる。で、改める一つの方法として、都合の良い自然現象、都合の悪い自然現象といった、「自然現象に対する価値判断をやめよう」という主張が生まれる。 すなわち、 @「自然内現象としての人間」は、自然現象・要素に対する価値判断をすべきではない というのが、環境主義者の主張になる。ただし、最初に確認した通り「人間とは、自然の一部である」という前提を持った環境主義者が@と言っているわけだ。よって、@で言うところの「自然現象」には、 A人間が生存するという自然現象 B人間が絶滅するという自然現象 も含まれている。だから、AだろうがBだろうが「自然現象」なんだから、良いとか悪いとかの価値判断をすべきではない、ということになるハズなのだ。にもかかわらず、「自然内現象である人間が絶滅するのは、悪いこと」という、明らかに「Aは良くてBは悪い」という価値判断がなされ、「Aの自然現象が良いから」という文脈の上で環境保護が語られている。 つーことは、やはり環境主義者も「”自然外”現象としての人間」という立場から自然を見ているんじゃないか?それは、自然現象に作用を加えることはあっても、自然現象の変化によって影響を受けない存在と仮定される「神」と人間を同一視した考えなんじゃないか?神ならば「自然のこの辺りが好みじゃない(悪い)から、こういう風に変えた方が好みだ(良い)」という価値判断を下せる。自然という対象物をどういう風に変えようが、その対象物の変化からは何も影響を受けない存在(=”自然外”の存在である「神」)のみが、「価値判断」を下せる。 ・・・なら、ここは割り切って「人間とは、自然の一部」「自然内現象としての人間」とかの前提を捨て、「神」になって環境保護を訴えた方が簡単なんじゃないか?もっと言えば、「人間保護」と言った方が適切ではないか、と。 将棋を打つ棋士の目と同じである。人間を含んだ自然現象・要素を使った将棋の世界。自然には、人間にとって「都合の良い面」と「都合の悪い面」がある。それらの両者による将棋の対局とみなし、「都合の良い面」側の王将が人間である。無論、駒を動かさないという選択肢もあるが、対局者たる「都合の悪い面」側は常に攻めてくるから、放っておくといずれは王将を取られる。王将を守るつもりなら、駒を動かす必要がある。 王将たる人間を最も大切にして守るためには、他の駒を犠牲にすることも厭わないが、何でもかんでも犠牲にしていたら王将は守れない。相手も駒を動かすし、こちらも色々と考えて駒を動かすことで、将棋盤全体での駒の並びは常に変化する。時には王将にとって苦しい場面もあるだろうが、最終的に王将が生き残ればよい。っていうか、この将棋において「人間に都合の悪い側」の王将は絶対に取れない(そもそも王将が存在しない)から、負けることはあっても勝つことはない。この将棋の目的は「絶対にこちらの王将を取られずに、いつまでも永遠に将棋を続ける」ということにある。 たかが100年すら満足に生きられない人間。はるか先にある永遠を、世代が繋いでゆく。それが「人間にとって良いこと」。次の世代、その次の世代、そのまた次の・・・それがどこまでも繰り返されることが「人間にとって良いこと」。ここから、よく言われるセリフだが、現時点では存在している人間だけでなく、未来世代の人間をも考慮に入れるという、「通時的な意味での人間」の観点が出てくることになる。ここでやめりゃいいのに、「そもそも通時的な意味での人間」って何だ?っていう疑問が出てくるが、また明日。 竹内結子が、いい。「美醜」という価値判断もやはり、自身が対象外部の存在だからできること。対象に埋没してしまえば、「美醜」は消えてなくなる。「美」を「美として感じたい」のであれば、美を感じる主体である「自身」は、対象の外側に置くのが望ましい。逆に「醜を感じたくない」ならば、自身を「醜と同一化」してしまえばいい。 |
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| 2008年1月13日 雪やや風 昨日の続き。 「人間じゃない立場」ってところで、思った。「生産者と消費者」っていう立場を超えて「人間」として見ても、その場合の「人間」の定義が、やっぱし違ってるんじゃないかと。 「では、人間とは、何であるか?」・・・これまた深そうですよ。 例えばだ。生物学的に「ホモ・サピエンス」と区分される生物の雌雄による生殖から発生した生物があるとする。しかし、その全体的外観は親の個体と違い「Y字型」で、ちょうど双生児それぞれの上半身をそのまま残し、下半身を共有するような外観であったとする・・・つまり「ベトちゃんドクちゃん」を想定している。 厳密な生物学的区分は知らないが、倫理的な観点からすると、彼らは「人間」として扱われているはずだ。いや、そもそも「彼ら」という表現からして適切なのか?という疑問もあるが、「ベト」「ドク」という固有名詞が当てられ「別々の存在」とされているのであれば、語法として「彼ら」で正しい気がする(分離した兄は死亡したらしいが)。 しかし、こーいう見方もありうる。すなわち「Y字の外観を持つ1つの個体」であり、「ベト」「ドク」とは固有名詞というよりも、むしろ「右腕」「左腕」といった区分と同様である、と。いわゆる五体満足な存在であれば、「右腕と左腕を合わせた全体」が一人称の「私」であって、「右腕は私ですが、左腕は別人です」とは言わないであろう。「ベト」という単語も「ドク」という単語も、「一定の機能の集合を区分するための呼称」であり「別々の生物個体を示す呼称ではない」と見るならば、やはり「ベト&ドク=1つの生物」とするべきで、「彼ら」という表現は適切ではないのか。 だが「ベト」にも「ドク」にも、それぞれ固有の「脳」があり、「右腕&左腕」という場合と比べるには無理がある気もする。少なくとも俺にとって「違和感のない表現」は、「彼ら」である。例えば、「彼ら」があの外観ではなく、上半身は1つに対して下半身が2つ(=頭1つに2本の腕と4本の脚)という外観で生まれてきたならば、おそらくそれは「彼ら」ではなく「彼」になったはずだ。だからやっぱし、「脳ミソが別なら存在としても別」という考え方はスンナリ受け入れられる・・・それでも、「脳ミソを腕とは別物として扱うのはなぜか?」という疑問が生じる。だって、「物理的・化学的現象の集合」と見るならば、「現象存在である」というレベルでは、腕だろうが脳ミソだろうが同じになるからだ。 そーすると、だ。昨日は気付かなかったが、「人間」もまた、「物理的・化学的現象の総体としての自然現象」に含まれる「一つの反応系」に過ぎないのであれば、そもそも「自然現象」から「人間」として切り取って区分することにも疑問が生じる。 例えば呼吸を考える。呼吸とは、「大気中」の酸素を「体内」のヘモグロビンに取り込み、代わりに二酸化炭素を「大気中」に放出するという、一連の「化学反応・化学現象」とも言える。差し当たり「大気中」「体内」として区分してみた。だが、酸素&ヘモグロビン&二酸化炭素(及び必要な酵素など)の条件を揃え、適切な器具も揃った実験室環境なら、呼吸において発生している反応と同じ現象を、「化学的に」再現できるんじゃないかと思う。つまり、「呼吸」という化学反応全体からすれば、「大気中」も「体内」も「無意味な区分」であり、言うなれば「人間は常に自然と一体である」「まさに人間は、自然の一部である」となる??・・・エセ環境主義者のセリフみたいだ。 まぁとにかく、だ。こうしてみると、環境保護にまつわる主張が、しごくまっとうに思える。でも、 @森林伐採・化石燃料の燃焼などによって、地球温暖化が進む A植林・省エネなどのエコ活動によって、地球温暖化が止まる といういずれの現象も、「現象」という意味でのレベルは同じである。@もAも、「良い」「悪い」の価値基準は、現象レベルでは存在しない。単に「そーいう化学反応・現象が起きた」というだけのこと。それでも@が「悪い現象」とされるのは、「人間にとって」都合が悪いから「悪い」に過ぎない。でも、 B温暖化が進み、人類は絶滅する C温暖化が止まり、人類はこの先も生存する という2つの現象だったらどうか?っても同じである。これらもまた、「そーいう現象が起きた」というだけのこと。確かにBは、人間にとって都合が悪い。でも「人間が絶滅するということ=自然現象の一つ」なら、その現象自体に良い悪いの価値基準は存在しない。同様に、Cが「良い」という価値判断をすることもできない。それも単に「そーいう現象が起きた」というだけだから。 「人間も自然の一部で、自然現象の一つ」だと主張するのであれば、自然現象に含まれる「一つの反応系」に過ぎない「人間」にとって、「悪い現象」というのは、そもそもアリエネー、ということになる。自然現象全体の中の「一部」である人間にとって悪い現象も、自然現象「全体」にとってみれば、良いも悪いもない。 「大きな改革のためには、小さな痛みが必要です!」by小泉純一郎、みたいだが、小さな痛み(=省エネ・エコ生活をする不便さ等)に耐え、大きな改革(=温暖化が止まる等)を実現したにせよ、結局は「現象内の存在」である人間には、その大きな改革自体に良いも悪いも言えない。自然現象全体の変化について価値判断を下せる存在があるとすれば、現象から外れ、現象全体を鳥瞰できる「神」しかいない。その神が「俺、緑色ってキライなんだよねー」と思って手を加えれば、地球上から緑地は消える・・・「おぉ、全ては御心のままに」ってか?つまり「改革は良いこと」と言っていた小泉さんは、「現象の外側の人」だからこそ、価値判断を下せていたわけだ。「国民の目線に立って」という言葉は偽善で、政治家は常に「神」の視点で見ているのであろう。「諸々の分析をしてみたところ、Aという政策を実行すると、BやCという社会的・経済的現象が予想されます」という客観的情報の提示は、政治家にとって重要な仕事だ。しかし、「その現象は良いことです!」という価値判断は、国民の目線に立ってる政治家ならば、言えない。国民の目線を離れ、「上から」見ているからこそ、良いとか悪いとかの価値判断が下せる。「政治家は公僕です」とは名ばかり。 脱線した。ともあれ、どうやら現象的な面から考えると、環境保護は価値基準が成り立たないらしい。それでも、「人間は自然の一部である」という現象的な一体化を述べる思想を背景にして、「だから環境破壊は悪い」という「価値判断」に関する主張が、「一体化していると主張しているはずの現象の内部から」出てくる。 疲れたからあとは明日。 |
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| 2008年1月12日 雪 頭痛い。そもそも「勉強」っていうことをロクにしないで、20数年も生きてきた男である。慣れないことをするからこーなる。 ただ、こーやって日々「ばけがく」ばっかしやってて思ったのは、人間も、いろんな分子のカタマリで、 分子=原子のカタマリで 原子=電子と陽子と中性子のカタマリで 電子とか陽子とか中性子=素粒子のカタマリで 素粒子=「ひも」みたいなのの振動状態?で・・・ っていうことになる。つまり、究極的には人間も「物理的・化学的現象の集合」と表現しても間違いではない。だから、そこらの石コロとかと比べても、「諸々の現象の集合した存在」という意味では、何ら違いはない。「人間性」とか言われるものも、単に「一定の現象が集合した存在が持つ、物理的・化学的特徴」とも言える。その「特徴」は、例えば「金属は、電気を通し、叩くと延びるといった特徴を持つ」っていう説明と、意味的には同レベルだと言える・・・「ジツニオモシロイ」。 そしてすげー謎なのは、電子とかの並び方がほんとちょっと違うだけで、性質がぜんぜん違うものになったりするってこと。「すいへいりーべぼくのふね」でも有名な「周期表」を見ると、「Hg(水銀)」と「Au(金)」は、お隣さん同士である。お互いの構造上の違いは、金は水銀よりも電子・原子・中性子の数でそれぞれ1つずつ少ないということらしい。たったそれだけの違いなのに、水銀は「有機水銀」で公害になったりと、基本的に危険な元素になり、金は貴金属になったりと貴重な元素になる。さらに、水銀の隣にある「Tl(タリウム)」は、さっきの3要素で言えば金よりも2つずつ多いだけなのに、ネズミ対策の殺鼠剤に含まれてたりする・・・肉眼では絶対に見ることのできない、すんげー小さな電子とかのちょっとした数の違いなのに。 しかし、だ。自然界には「雑草」も「害虫」もないと言われるのと同じように、「危険な物質」というのも、結局は「人間にとって」という目で見た場合である。農薬だってそうである。そう思う人にとって「危険」なだけで、百姓には「有益」なのである。見ているものは同じでも、「見ている立場」が違うから、生産者と消費者の主張は食い違うのが当たり前。じゃぁ、両者の立場を合わせて「同じ人間」として見たら? それでも「農薬ってものは、成分がどうとか量がどうとか使い方がどうとか関係なく、とにかく全て危険だ!」とか言う存在は、たぶん「人間じゃない」んだと思う。これが言いすぎなら、少なくとも「人間じゃない立場」から、農薬を見ているんだと思う。 |
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| 2008年1月11日 曇 一つ「脳ミソのブレイクスルー」をしたので、備忘録としてプロセスを書いておく。この問題を解くのに、現状のバケガク知識では半日近くを要した。なお、この問題が記載された教科書のページには「2年1学期中間」とかメモがあるんで、その時期に習ったレベルらしいが・・・今日、最初に見た段階では、何いってんだかサッパリワガンネ(ToT)で、「思考停止」に陥った。 ともあれ、「ヘキサゴン」じゃないが、文系の脳ミソはどういう思考回路で問題を解いているのか、その一つの事例として、貴重な資料?となるであろう。やっぱし俺は、算式とか記号だけポンポンと並べられるだけじゃ理解できない。好きな教科は「歴史」だった。文字通り「ストーリー性」がないと、興味がもてない&理解できない。そして文系のグチ。 「計算はあくまでも、問題を解決あるいは検討するための手段・道具の一つに過ぎない。すなわち、何らかの目的があるからこそ、計算には意味があると言える。計算それ自体が目的になるなんて、俺には理解できない。」 <問題> 硫酸(分子量98)の63%水溶液(密度1.54g/ml)のモル濃度と質量モル濃度を求めよ。また、この水溶液100gに、45%硫酸水溶液60gを加えると、何%の溶液になるか。 <答1:モル濃度について> モル濃度とは、mol/lという単位で表される通り、「ある溶液の1リットル中に含まれる物質量(=モル)」のことである。つい単純に「1リットル=1キログラム」とか考えてしまうが、それは「単なる水」の場合。だから、一見すると関係なさそうな「密度」が出てくる。これがあることで、この硫酸63%水溶液全体の質量が計算できる。注意しなければイカンのは、これはあくまでも「水溶液全体の密度」であり、「その中に含まれる硫酸の密度」じゃないってこと。 とにかく、「mol」と「l」が分かればいい。 さて。密度は1.54g/mlだと言っている。これを日本語に訳すと、「この硫酸63%水溶液を1ml取って測ってみると、その質量は1.54gですよ〜」という意味になる。して、1リットルは1000ml。だから、密度に体積をかけると、この水溶液が1リットルあった場合の質量が分かる。やってみると、 1.54x1000=1540g ってなり、「この水溶液は、1リットルで1540gですよ〜」ってことが分かった。 んで、63%ってのは「質量パーセント濃度」を意味している。ならば、1リットル=1540gの水溶液中に、どれだけの純粋な硫酸があるのか、その質量を計算してみると、 1540x0.63=970.2g ってなり、ここまでの計算で、「硫酸63%水溶液1リットル中には、970.2gの硫酸がありますよ〜」ってことが分かった。でも、求めるのは「質量」じゃなくて「モル」。だから、970.2gを、モルに換算しないといけない。 モルってのは物質量のことで、硫酸が1モルある場合、その質量は物質量に「g」を付けた「98g」と考えていいらしい。1モル=98gだから、比率で考えると、 1モル:Xモル=98g:970.2g よって、X=9.9 となる。これが、1リットルに含まれる物質量。よって最終的な答えは、 9.9mol/l <答2:質量モル濃度について> 似ててゴッチャになるが、モル濃度とは別。モル濃度は「溶液1リットル中のモル」だが、質量モル濃度は「溶媒1キログラム中のモル」である。(注:この言葉の意味はよく分かっていない。だって「溶媒1キログラム中の」って言った時点で、「溶質」を含んでるってことになるわけで、それは既に「溶媒」じゃなくなっている。) まぁいい。注意しないといけないのは2点。「溶媒」と「キログラム」。 先のモル濃度では「溶液」、この問題で言えば「硫酸+水という全体」の「体積」に対してのモルだった。しかし質量モル濃度では、あくまでも「溶媒」、つまり今回の場合は「水のみ」の、しかも体積じゃなく「質量」に対するモルが問題。つーことは、この水溶液中には、水がどれだけあるのか?を知らないと始まらない。(注:やっぱしよく分かっていない。ったく、なんだってこんな分かりにくい&混乱する単位を作るんだか・・・「ジツニオモシロイ」福山風に。) で、まずは分かるところで、硫酸63%水溶液1キログラムの中に、どれだけの純粋な硫酸があるか計算してみる。水溶液が1キログラムあったとすると、その内の63%が硫酸で、残りの37%が水ってことになる。 1x0.63=0.63kg この水溶液が1キログラムあった場合、そのうち0.63kgは純粋な硫酸で、残りの0.37kgは水だということが分かった。ところが、やっぱしここでも最終的に求めるのは「モル」なんで、0.63kg=630gを、モルに換算しないといけない。答1と同じように比率で計算すると、 1モル:Xモル=98g:630g よってX=6.42 これと、先に引き算して分かった水の重量0.37kgをあわせると、 6.42mol/0.37kg となり、最終的に求める「mol/kg」と、単位を揃えることができた。最後は、「0.37kg」の部分が「1kg」になるように変換すればOKなんで、 6.42mol:Xmol=0.37kg:1kg よってX=17.3 となる。だから最終的な答えは、 17.3mol/kg <答3:混合溶液の濃度について> これは液肥の混合でも使うから、百姓なら分かります。 63%水溶液100g中には、 100x0.63=63g の硫酸が含まれている。 一方、45%水溶液60g中には 60x0.45=27g の硫酸が含まれている。 つーことは、混合溶液全体に含まれる硫酸は 63+27=90g ってことになる。 で、100gと60gを混合するんだから、混合溶液全体の質量は 100+60=160g よってこの混合溶液の濃度は、 90g/160gx100=56.2% となる。 |
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