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2007年12月中旬の作業日誌
2007年12月20日
 みぞれか
 すげー寝た。
 まず、さすがに朝のゴミ出しはしないとイカン(既に4袋の在庫)ので、これを捨てるために集積所が開くまで徹夜。そのまま起きてるつもりだったが結局さらに寝て、起きたら15時過ぎ。ハラ減ったんでメシを食い、さらに寝て、起きたら22時。「医龍」の最終話を見た。水川あさみと大塚寧々は両方ともいいが、やはり寧々ちゃんのエロさが上だな、でも「ニュースJAPAN」のクリステルはさらに上だなとか思い・・・つまり今日は、ゴミを捨て、医龍を見て、滝川クリステルを見て、それで終わった平和な1日である。

2007年12月19日
 曇
 ここ数年で一番ぐらいに、シチューがすんげぇ美味くできた。主夫は満足。
 毒劇物の勉強やり始めて思ったんだが、「自分にとってつまんねーこと」に本気で取り組む経験ってのは、かんなり久々なことなんじゃないかと。いや、センターとかヤマトとか「つまんねーこと」は確かにやってきたが、少なくとも「生活上の必要性」ってインセンティブはあったし、本気になる必要などなかった。要は俺って、「(いちおーは)社会人」になってから、ほとんど「自分のやりたいこと」しかやってこなかったんだなぁ・・・ってことに改めて気が付いた。さすが俺。
 誰が言ってたんだか、あるいは本で読んだか忘れたが、次のような視点もあり得ることを、だいぶ前に知る機会があった。すなわち、「学校教育の目的」ってのは、本質的には学力を身につけることでも人間関係を学ぶことでもなく、「つまらないことを、いかにガマンできるか」「その上でさらに、いかに正しい答えを導けるか」を測ることにあるとも言える、みたいな。
 なるほど例えば、どっかの会社員にでもなろうものなら、面白くもない仕事を黙々とこなし、しかも好成績をあげることは、「優秀な社員」の必須条件であろう。そーいう人間かどうかを見極めるうえで、つまらない学校の勉強をマジメにこなし、しかも優秀な成績をおさめてきた「高学歴」者ってのは、すげー実用的な基準なのかもしれない。
 してみると俺は、学校の勉強に取り組むに当っての「マジメさ」がほとんどなかった。例えば歴史の時間。先生が授業で説明する部分こそが重要な事件なんだろう。だが、俺はたいがい「資料集」とかの隅っこに小さく書いてあるような、瑣末なネタにこそ興味をそそられた。数学にあっては授業のスピードに付いていけず、授業中は「自分で分かって面白いところ」を勝手にやっていた。古文・漢文は必要性が感じられず&先生が嫌いで、気が向いたとき以外は主に英語の自習をしていた。化学は、試験管の中で反応が進んだりと視覚的な変化が面白いんで「実験」は好きだったが、別にその理屈はどーでもよく、反応式とか計算式とかをマジメに覚えようとは思わなかった・・・などなど、やっぱし「好きなこと」しかやってこなかった。
 そんな私、三田耕生ではありますが、無謀にもこの度、面白くもないことにマジメに取り組み、結果を出してみようと思い立った次第であります。

2007年12月18日
 曇
 おとなしく毒劇物の試験勉強を始めた。メンドクサイ。メンドクサイが、やる。目的は、@農薬オタクによる趣味の一環 A農薬を堂々と使うに当り「安全な使用者」と目されるための客観的基準の確保 である。どーでもいいが。

2007年12月17日  はじめまして。「日本農園」です。
 小雨っぽい
 申請と質問で税務署に行った。今年は、特に減価償却がらみで普段と違う形になるから確認の意味で。いや、そんなもん調べりゃ済むんだが、自分で「応用」をするためには、まず「基本」を抑えないといけない。同じことだが、「ルール」を知らねば、どこまでが「反則ギリギリ」なのか判断できない。例の無登録農薬の一件みたく「知らずに反則してました」ってのも問題だし、「ルールを知った上での意図的な反則」ってのも自制している。反則してバレないようにコソコソするドキドキ感も理解できるが、それよりも「何か問題ある?これってルールの範囲内でしょ?」ってことで有無を言わせなくさせる方がオモシロいからだ。
 んで、「減価償却の変更届出しに来たんだけんどヨす。」から始まって、確認したい点の質問などやりとり・・・が、何かが違う。対応してくれたオッチャンが、不思議そうな顔をしている。
 判明したのは、俺はずーっと勘違いしてたってこと。ある事業所が新規に減価償却資産を取得した場合、その償却方法は、変更届を出さない限りずっと、開業時に採用したのと同じ方法(俺の場合は定額法)を適用しなければならないと思っていた。その考えでいたから、今までずっと「定額法」でやってきた俺が、今回取得する車について「定率法」を適用させるには、「変更届」の申請が必要だと思っていた。が、
 「それなら、その新規に取得する車の償却方法を定率法にすればいいだけで、申請の必要はないです。」
 「この変更届は、既に償却中の資産について、その償却方法を変更するためのものです。」
 ・・・で、5年間の勘違いに気づいた、というアホ話。無知とは罪。
 続いて、例の「少額減価償却資産の全額損金算入特例」を確認。なんぼ一括償却とはいえ、仕訳は「事務消耗品」じゃなく「器具備品」とかにするのが正解らしい。
 ついでに電子申告の変更届も提出。何年か前に開始届けを出したが、電子証明の発行だの何だのが厄介で一回も使ってなかったのを、そのままじゃ何か気持ち悪いんでこの機会に廃止。
 廃止申請書に「屋号」の欄があり、ふと思い出して質問してみたら、屋号の変更も特に申請は不要とのこと。確定申告の時とかに新屋号を書いて、「これに変更しました」とか伝えればいいらしい。
 ってことで、今日からうちは、マルコーガーデン改め、「日本農園(にほんのうえん)」になりましたとさ。

2007年12月16日
 雪
 昨日のフォーラムはそのまま飲んでお泊り。今日も昼過ぎまで個別にくっちゃべって戻った。2日連続で久々に「全力に近い」放出活動をしたせいか、何か疲れた。現金なもんで、目の前にいる存在が「どの程度かまってくれそうか」により、俺という子供は泣き方のレベルを変える。どーせかまってくれないんなら、泣くだけムダである。それだけ、今回のメンツは「かまってくれそう」な程度が大きかったとも言える。
 ただ、こないだ農研でボーリング行った時も思ったが、全力ってのはえてしてコントロールを失いがちになる。当ろうが当るまいが、とにかく全力で投げる気持ちよさもあるが、思ったとおりのラインを転がすことが出来たときの気持ちよさもある。そして俺は前者の快感に関して、だいたい気が済みつつある。後者を検討するんであれば、基礎体力をさらに向上させつつも「テクニック」を磨くことが、美しいライン(これも自己満足)を描けるようになるための一つの方法かと思った次第。ただし、あまりにもテクニックに固執し、本来の目的だった「快感の追求」を忘れてしまうのであれば本末転倒である。

2007年12月15日
 曇夜雪
 予定通り午後から山形に行き、講師の肩書きで新規就農者フォーラムに出席。まぁ「講師」などと言えば偉そうなわけだが、ロクなことを喋るわけじゃない。俺にオファーするにあたってこの「子供部屋」の存在が影響していたようだが、それを踏まえて俺を呼ぶ=「一発かまして良い」ってことだと理解した。ちょっと「講師」の「講」って字を辞書で引いたら、「説いて明らかにすること」とあった。じゃ「説く」って何だと引くと、「物事の筋道を述べる」みたいにある・・・ってことは、その意味での「講師」など、俺にはできない。だーっと諸々を放ち、「あーきもちいー」で、はい終了。講師などと言える身ではない。言うなれば「放師」だろう。
 何が気持ちいいかってのは、人によって様々である。俺が気持ち良いことが、他者にとっても気持ちいいとは限らない。「俺は右手でするのが好きだ。でも、あんたは左手が好きなんだな。ナルホドナルホド。」とは、話を聞けば理解できる。だが、「右手の気持ちよさとはどのようなものか」ってことは、「筋道を述べ」たところで、そう簡単には理解・共有されえない感覚である。だいたい、そんなの「メンドクサイ」。右手が好きなもの同士、あるいは「その感覚を擬似的にでも経験させるテクニック」的なものがあれば別なのかもしれんが、今のところ俺は、そこまで外向きの欲求がほとんどないオナニストである。とにかく己で己に刺激を与えて「大きく」「固く」して「溜め」て、ある程度したら「ボクちんは右手がこんなに好きなんだよぉぉぉぉぉ」と身勝手に所構わず放出し、暑苦しく存在をさらけ出したい露出狂(教?)である。それが、かまって欲しい、認めて欲しいという欲求の、歪んだ(あるいは逆にストレートな)現れであるという自覚はある。そうでありながら、自らその承認を遠ざけるようなことをしてしまうアンビバレンツ・・・やっぱ俺はMなんだろうな。
 何にせよそれで、少なくとも「あぁ、こいつは右手が好きなんだな」ということだけは訴えられる。別に宗教家でもないんで、「この右手の気持ちよさということを、あまねく人々に知らしめ、共感の輪を広げたい」とかも思わない。そんなの、他の方法が好きな連中にとっては「余計なお世話」に過ぎないし、逆にそれが俺に向けられたとしても、同じく「ウザイ」だけである。よって俺は、「自分が嫌なことは、他人にもしちゃいけません」という教えを実践している、極めて道徳的な男なのである。ただ、「右手で気持ちよくなる人もいる」という事実を伝えることは、もし今まで左手しか知らなかった人がいるならば、新たな選択の可能性を得られることにもなるわけだ。結果としてそれを選ぶか選ばないかは本人次第なので、俺はただ「俺の場合は、こうしたら気持ちいい」ってことを訴えるだけ。
 そうして、俺は気持ちよくさせてもらった。

2007年12月14日
 みぞれっぽい
 今年も暖冬だろうか。先月の一発ドカ雪だけで、その後は雪の積もる気配がない。来週は冷えるみたいだが、その先はまた気温が上がる予報だし。
 エサはまだあるんだが、ぼちぼち「試験勉強」する気になってテキストを開くことにした。が、明日は新規就農者フォーラムでくっちゃべることを思い出した。依頼されてる内容的に「ぶっつけ」でもOKな気がしたが、ここんとこ異種格闘技戦のごとくエサ食ってるんで、脱線しすぎないように&自分で確認の意味でも、背骨の展開だけまとめておいた・・・っても、たぶんほとんどアドリブになるだろう。 

2007年12月13日
 小雨
 いつだったかに読んだ、ムツゴロウさんの本みたいだ。筆者自身、よく分かんないまま書き始めたって言ってる通り、確かにまとまりはない。書きながら考えてるっていうか、思いついたことをそのまんま書いてるっていうか。別にそのことを悪いとは思わない(俺自身がまさにそーやって書く人だから)し、むしろ書き手の頭の中で何と何がどーやって絡み合ってるのかってのは、ヘタにキレイにまとめるよりは見えやすいと思う。
 橋本治 2005.『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』集英社新書.
 経済の本みたいなタイトルだが、ネタとしては「勝ち組・負け組」的な構図や「経済破綻」とか、よく耳にするから「分かってる」ようで「実はよく分からない」ところを、筆者なりの視点で、突き詰めて哲学的に(ってほど小難しくはない)考えるところを書き綴った中身になっている。
 「フロンティア」がなくなりつつある、つまり、モノ的にはほとんど満たされて、新たなビジネスチャンスの領域がほとんどなくなりつつあるっていう見解は、大いに共感するところ。いわゆる「大航海時代」だったら、まだ「地理上の発見」の余地はいくらでもあったわけだが、地球上の陸地全てが知り尽くされてしまえば、もうそれ以上「新大陸の発見」がありえないのと同じこと。そんな中で「さらに新たな発見を」って必死にやることの意味が、少なくとも俺には理解できない。
 例えば宅急便。「新規顧客獲得!」「前年同月比で荷受増!」とかやってたのを見てきたわけだが、ものすげー違和感を持ったものだ。例えば飯豊町なら飯豊町で、「新規に工業団地や商業地ができた」「新興住宅地が増えた」とかって状況なら、新規契約、荷受増も分かる。だが、産業構造なんかほとんど変わっちゃいないし、人口にいたっては減る一方である。ある会社に対して「もっと荷物を出してください」って言ったところで、普通は「受注」があって初めて「発送」になるわけで、その会社の一存で荷物が増やせるわけじゃない。
 じゃぁ、どーやって「新規獲得」「荷受増」をするかってーと、現実的にありえる可能性は、「既に他の運送業者と契約してる所から奪う」しかないわけだ。産業構造も人口動態も大きな変化がないなら、宅配に出される荷物だって驚くほどの変化はない。例えば町全体で1000個の宅配荷物があるなら、その絶対数自体に驚くほどの大きな変化はなく、A、B、Cとか複数の運送会社で、それぞれのシェアを取り合ってるわけだ。それも、基本的には「低価格化」の方向で。
 運送サービス商品の価格が低下するって事は、例えば、トラックの燃料費がすげー下がったとか、移動速度がすげー上がって高効率化したとか、何かしらの理由がないと、「普通は」ありえない。が、原油価格はむしろ上がってて、移動速度は法定速度の縛りがあって変わりない・・・運送サービス商品を構成する原価の部分は大きな変化がないのに、なぜか「低価格化」で勝負したがる。それは、もはやそれしかないからである。「他社よりも早く運びます」「他社よりも丁寧に扱います」「生鮮品も冷蔵車で運びます」「通販商品も玄関先で代金を支払えます」などなど、運送サービスに要求される顧客ニーズが、どの運送会社を使っても大差がなくなった=フロンティアがなくなったからである。無論、まだ工夫すれば何か出るだろうが、大局的には「飽和した」その状況を受け入れるべきなのだ。
 にもかかわらず、「いつまでも右肩上がりの成長」を望み、本気でそれが可能であるかのごとく経営するってのが、理解できなかった。むしろ考えるべきは、最低限、現在のシェアを減らさぬよう、既に獲得してある顧客の信頼を失わぬよう勤めることなのに、ヘタに低価格化して数を稼ぐからムリで雑な仕事につながり、結果としてサービス品質の低下になるのだ。諸々の食品偽装も、業種は違えど「根っこ」にある基本的な事情は似たようなもんだろうよ。

2007年12月12日  人の為に
 曇
 今年を表す漢字は「偽」だと、ニュースでやっていた。画面見て思ったが、「偽」って字は、にんべん「イ」と、「〜の為に」っていう「為」の組み合わせなんだな・・・「人の為に」=「偽」。ナルホド。「お客様の為に、より新鮮な商品を」って言ってて、偽装。ところで、福田総理が今年を一文字で表すと「信」だそうな。これは、にんべんと「言」の組み合わせ。「人の言うこと」=「信」?少なくとも、「(自分以外の)人の為に」とか「人が言う」言葉は、「偽」であることが多いだろうから、安易に「信」じない方が無難だべな。でも、これは信じていいだろう。「俺は、俺の為に、自己満足を追及します。」・・・あぁ、俺ってなんて「偽りなく信じられる」奴なんだろう。
 今日のエサ。
 佐倉統 1999.『現代思想としての環境問題』中公新書.
 なんか、大学で教わる論文の書き方・章立てに忠実に従ったような流れ。最初に目的や方向性・概念を提示して的を絞り、続いて従来の研究について確認し、必要に応じて批判的考察を加えた上で、具体的事例を交えたり他の研究成果を援用しつつ自説を展開、最後にまとめとして将来展望、と・・・そーいう「美しい」書き方は、俺にはできない。
 中身としてはこんな具合だ。遺伝子による形質遺伝・進化には途方もない時間がかかるし、一世代間で乗せられる情報の変化にも限界がある。脳はそれを補佐し、いわば「遺伝子の外部メモリ」として機能し、次世代の遺伝子が生存しやすいように、生活様式の変化をはじめとする「文化」を生み出してきた。端的には脳の活動によって文化が展開してきたと言えるが、そのことで環境問題も発生することになった。本来、遺伝子のために活動していたはずの脳が、今は逆に、遺伝子にとって不利な状況を作り出している。遺伝子の補佐役であった脳に限界が来たなら、今度はコンピュータに活路を見出すのもアリではないか。遺伝子の外部メモリとして脳が生まれ、脳の外部メモリとしてコンピュータが生まれたのであれば、遺伝子(自然)とコンピュータ(機械)は、従来思われてきたほど二項対立的に固定した関係性で扱われなくてもいいんじゃないか・・・みたいな、分かったような分からないような話で終わった。だからむしろ、筆者独自の主張がっていうより、前半で色々と概観されてる環境問題への向き合い方についての考察の方が面白かったという感想。いろいろあるが、一箇所だけ引用。
 『何度も言うように、今の環境問題複合体で問題になっているのは、ぼくたち人間の生活をどうするか、ということである。「地球にやさしい」のが目的ではない。「<ぼくたち>にやさしい」のが目的である。環境問題複合体はさまざまな形をとりうるが、この点を除いてしまったら成立しえない。もしガイア仮説を正しいとするのなら、環境問題複合体の解決は簡単だ。地球上から人類を一掃すればよいのである。さすれば、かなりの長きにわたってガイアは<生存>し続けるであろう。』p83
 そうそう。エコロジーの言葉の何が嫌かって、これなのだ。その裏に「私は、私の為に活動してるんじゃない。広く地球規模で人類全体のために考えてるの。」的な、全くもってその本来の目的に目を向けてない(あるいは気づいてもいない)感じが。そんなに言うなら、まず手始めに、あなたが消えればいいんじゃない?と思う。
 ここにもあった。「〜の為に」が「偽」であり、「人の言うこと」が「信」でないことが。 

2007年12月11日
 曇
 ぼちぼち試験勉強しようという気はあるんだが、まだオイシソウなエサの蓄えがあるんで、なかなかそっちに食指が動かない。本日のエサ
 暉峻淑子 2004.『豊かさの条件』岩波新書.
 昨日の「不道徳教育」に比べりゃ、よっぽど一般受けする「道徳的な」主張が展開される。国家の諸制度・硬直性に対する疑問は提示されるにせよ、リバタリアンほど過激な(国家など不要、みたいな)ことは言わない。自由市場についても、一定の規制はあるべき、という立場に立つ。
 感情に訴えかけるネタってのは、往々にして引き込まれやすい。この本の場合は、同情・共感ナドナドが出てくるわけだが、正面切ってそれらに対する疑問をぶつけるのは、「道徳的」に難しかったりもする。ただ、他者に対する思慮というのは、ハタから見ると非常に美しく見え、やってる本人も自己の言動に対する疑問を持ちにくい(あなたのためよ、等)からこそ、手放しで100%を容認してしまうと、かえって「おせっかい」になる場合もあるってことだけは言える。
 例えば、ホームレスやフリーターを例に挙げ、「彼らがもっと安定した生活を遅れるような社会になるべきだ」という話が出てくる。無論、ホームレスなら「本当はちゃんと雨風がしのげる所に住みたい」とか思う人がいるだろうし、フリーターにしても「正規雇用を望んでるんだけど、なかなか採用してくれない」っていう状況もあるだろう。しかし、以前に何かの番組で見たが、「住めば都。この生活をやめるつもりはない」っていうホームレス、「気ままに稼ぎたい、縛られたくないから」っていうフリーターだって、中には存在するのも事実だ。
 俺だって親に言われた。「農業なんかするより、公務員とか会社に勤めるとかしろ。お前の幸せを考えて言っているんだ。」と。確かに、そうしていた方が、経済的には「豊かな」暮らしが送れていたのかもしれない。だが、少なくとも22歳当時の俺には、そうすることが「幸せ」とは思えなかったし、今もその思いに変わりはない。好きなことをやって縛られずに生きていけるんなら、経済的に豊かでなくとも、俺にとっては「幸せ」なのである。
 これがもし、「現在就農中の若者は、より高収入を得られる仕事へ転職させる」「それが、若者の幸せのためである」とか、画一的に国家が強制してきたとしたら、俺は確実に今より「不幸」になる。同じ事で、「人間として、ホームレスやフリーターといった人々の境遇に同情せざるを得ない」「我々が描く幸せが、彼らのためになる」として、幸せの形をあらかじめ(てめーの価値観で勝手に)定義し、それをムリヤリ当てはめようとするのは、相手の自由意思を無視した極めて非民主的横暴となることもありうるのだ。そーいう配慮は、少なくともこの筆者には見られなかった。
 まぁ、筆者が強調してるのはNGOとかの活動だから、「強制的な権力を独占」している国家による(おせっかいな)慈善よりは、「同情される側」にも選択の余地があるからまだいい。「俺は要らない」って言ってんのに、強制的に押し売りしてくる「年金」とかよりはマシだろう。悪質な訪問販売、さらに言えば憲法で保護されてるらしい「財産権」の侵害である。筆者は、そーいう社会福祉的な分野まで国家が充実させるべきだと言うわけだが、NGO活動やってる自分が、国による諸々の規制のせいで柔軟に動けなかったりすることには、気づいていないのだろうか?


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