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2007年3月下旬の作業日誌
2007年3月31日
 曇夜雨
 『水源』、やっと読みきった。個人の自由とか自己実現とかって部分に関するアイン・ランド的理想は、ものすごく共感するところである。これはまさに語弊だろうが、この著者が賛美するのは「超個人主義」であり「超自己満足」である。「みんながそう言うから正しい」だの「○○さんについていけば間違いない」みたいな、主体的思考・判断を喪失して単に迎合してるだけのくせに、さもそれが絶対的基準であるかの如く主張・強制する輩が許せんというのは、俺も大いに賛同できる。また、既存の価値観・規範、あるいは大衆意識etcにそぐわないという理由で、個人の自由な思考・創造を潰しにかかることは結果として「全体主義」にと至るとして、主体性を失った社会の衆愚化を危惧する、どころか思いっきり批判している。
 まぁ、「全体主義国家」のソ連から亡命した著者だからこそ、逆にここまで言いたくなるんだろうとは思う。ただ、やり方一つだと思うわけだ。共産思想に立つものとはいえ、俺は「全体主義」を望むものではない。その意味で、著者の「個人の自由」に関する主張は共感するものの、資本主義擁護の立場は容認できない。
 資本主義の何が許せないか。格差などどーでもいいというか、個々人の能力は違うんだから、格差はあってしかるべきなのである。より良い商品が評価されて儲け、劣るものは評価されずに儲けない、これは当然のことだ。知的労働・肉体労働を問わず、何らかの労働があった上なら、なんぼ儲けてもそいつの能力なんだから当然のことだ。ただ、一定以上に蓄積した資本は、いわゆるマネーゲーム的に「転がすだけ」で新たな資本を生み出すことができてしまうという性質が、許せないのだ。

2007年3月30日
 曇ってたんじゃないかと
 普及所のKさんの紹介で合コンしてきた。あれはいい。いいようん。田植えでも牛のエサ食わせでもしますよはい。

2007年3月29日
 曇
 小説ってのはあんまし好きじゃない。ストーリーの含意とか象徴化されたものとか、そーいうのを回りくどく読み取らせるような話が多い気がして、単純にメンドクサイのだ。実生活においても、いちいち人の思惑を推測しながら行動するとかいうのがメンドクサイと思う奴だから余計である。だから、学校の国語のテストとかでよくあった「下線部から、この時の太郎の心情として正しいものを次のうちから選べ」とかいう問題も嫌いだった。んなもん、太郎にしかわかんねーだろーが!と。算数じゃあるまいし、話の中に何を見出すかは、読む人によって勝手である。出題者に「ここではこう解釈するのが正しい」とか規定してもらいたくない。
 そんな俺が、かんなり久々に読み始めた、アイン・ランドの『水源』。小説にしては直球勝負でスッキリしていて好感触。相当な分厚さなんでまだ半分も行ってないが、ここまでストレートなら、小説にすることなかったのにと思う。

2007年3月28日
 晴
 自由ってのは何だろう。
 「誰にも縛られたくない」と、夜の闇に「逃げ込んで」も、自由になれた「気がする」ぐらいの気分を味わえるだけ・・・とすれば、「束縛・強制の不在」あるいは「そこからの逃避・脱出」したことで見えるのは、単なる「自由の幻影」に過ぎないと思われる。だいたい、人間が最低2人でもいれば、互いに必然的に何らかの影響を与え合うことになるのは自明だ。なら、完全な自由ってのは、「自分以外の存在が全く存在しない状態」ってことか?
 んなこと不可能だから、可能なことと言えばその逆、「不自由を感じる自身の消去」だろう。つまり「死」こそ、全てからの解放という意味では「究極的な自由」の体現とも言える。事実、諸々の苦悩からの解放を求め、自ら死を選ぶ人もいる。むしろ、生きてることそれ自体が、どーあがいても「どっか不自由」と理解する方が正しいかもしれん・・・「原罪」によって苦渋の道を歩くことを余儀なくされた人間だから、それが当たり前とか言ってみたり。
 つーことは、死ぬ意気地がないなら、生きる上で考えるべきは「自由の追求」じゃなく、「いかに不自由さを緩和するか」ってことになるのかもしれない。ただ、その不自由さについて、単に「気にしなけりゃいい」で済むレベルもあるにせよ、「実力行使を伴う強制」もあるから厄介なわけで・・・
 生きてるかぎり、「自由」はたぶん不可能だわ。だからこそ、「自由になれた『気がした』」って気分が貴重なのかもしれない。

2007年3月27日
 曇
 リバタリアニズムな世界が実現した場合に発生するであろう、男女のやり取りに関する極端な小話。

 あぁ自由!この自由を与えてくれた、リバタリアニズム社会に感謝しよう!自分の外側のいかなる存在も、自分に対する強制力を持たない、全てから解放された、「完全な自律」を保障された自由が、ここにはあるんだ!
 だから俺は、君を束縛するつもりなんてない。君も、俺を束縛しないでくれると助かる。二人で、「お互いによって何ら縛られることのない自由」な状態のまま、ずっと暮らしていきたいと願う。「結婚は人生の墓場」なんて言葉は、俺と君には当てはまらないような、そんな生き方をしたい。
 だからこそ俺は、君に愛されようと思わない。君が、「俺を愛してしまう」ことに繋がる可能性を持つ言動は一切しない。なぜなら、君が俺を愛してしまったら、間違いなく君自身の心の中には「この男に愛される女であれ」という内的な強制が生じ、その強制に束縛されることで、君の「自由」が失われるからだ。
 他者に対して、「強制力を持つ干渉」をすることは、リバタリアニズム社会では「個人の自由」を侵害する重大な罪だ。だから俺は、君に愛されようと思わない。
 同じことだが、俺は君を愛さない。もし俺の中に「この女に愛される男であれ」という内的な強制が生じて、俺自身の自由が失われるなら、今度はそう仕向けた君が犯罪者になってしまう。俺は君を犯罪者にしたくはない。それに俺は、「君を犯罪者にしたくない」という自由な意志を持っている。だから俺は、君を愛さない。
 俺は今、君を愛している。しかし、君を愛することができない・・・

 リバタリアニズム的な消極的自由、つまり「外的存在による強制力の存在しない状況」という意味の自由をひたすら徹底したら、たぶんこうなる。まぁ、
 森村進編著 2006.『リバタリアニズム読本』勁草書房.
 には、

 これに対してリバタリアンは、「消極的自由」の概念をもっぱら「政府の強制からの自由」という意味で理解し、福祉国家政策に反対する。リバタリアンの社会においては「自己の内なる強制状態からの自由」は保障されない(p38)

 ってあるから、上の小話が「やりすぎ」なのは承知している。だいたい、「自己の内なる強制状態も、強制には違いないから反対!排除すべし!」とか言い出したら、それこそ宗教か何かになっちまう。
 「個人の自由の尊重!」ってのは聞こえはいい。実際、俺も無条件にそう認識していた。だが、リバタリアンの徹底した「自由の追求」を見て、特に考えもせずに使っている「自由」って状況について、改めて考えてみた。んで、
 数土直紀 2005.『自由という服従』光文社新書.
 ってのを読んでみて、別に先の小話みたく男女に限らず、「自由であり過ぎるからこそ、あるいは自由を追求し過ぎるからこそ、逆にその『自由』によって自身が縛られる」というパラドックスに陥る可能性もあるんじゃないかと思わされた次第。要は、「自由な社会」ってのは聞こえはいいが、それが極端に「個人の自由」を意味するなら、どっかムリがあるんじゃないかと。
 尾崎豊の曲に『15の夜』ってのがある。

 ♪盗んだバイクで走り出す♪行く先も解らぬまま
 ♪暗い夜の帳の中へ
 ♪誰にも縛られたくないと♪逃げ込んだこの夜に
 ♪自由になれた気がした♪15の夜

 いい曲である。
 「自由になれた『気がした』」とある。「気がした」のであって、「自由になれた」とは断言できていない。ここら辺の感情が、「望ましい自由」(そんなのがあるのなら)を考えるヒントになるのかもしれない。

2007年3月26日
 曇
 リバタリアンな書を食い始めた。マル経に始まってからというもの、ヘタな政経学部の学生より本読んでるに違いない。別に構うことはない。それが今の俺の、「主体的自由意志」なら。
 理解できないから、わからない、というのが普通だ。
 理解できるが、わからない、というのもある。
 俺の理解における「赤い思想」では、少なくとも原理的には、自由な社会が成立することになる。もちろん、原理と現実が食い違うことがあることも承知だ。それにしても、なんで「全体主義」に至ってしまうのかが、わからない。赤の思想に賛同できる部分が多いのは確かだが、「縛られまくり」な社会など望んではいない。無論、物質的平等も、特に重視してないどころか、不平等があってしかるべきと思っている。
 俺が望むのは、「自由の平等」。
 何かをする自由(=「何かをさせない」という強制の不在)
 何かをしない自由(=「何かをさせる」という強制の不在)
 リバタリアンな本で、「そうそう、これなんですよ奥さん!」と気づかされた(理解した)が、それが何でマルキシズムと対立する結果になるかが、わからない。
 エッシャーの「だまし絵」状態。

2007年3月25日
 曇
 「赤」の先、すなわち「ピンクなせ界」のヒントのイメージが掴めた気がする。キーワードだけ抽出。

 自由
 消極的自由
 自己責任
 自己管理
 相互不干渉
 リバタリアニズム(Libertarianism)
 アイン・ランド(Ayn Rand)
 フリーメイソン(Freemason)

 最近気になるもの。フジ系で4月1日夜から始まるらしい「プレミアA」のCM。
 和装クリステルが、すごくいいのであります。

2007年3月24日
 曇後雨
 宮城に行ったHさんが久々に顔出すってんで、夕方からOさん宅で飲み。知れたメンツなんで、「赤い話」も交え、くだくだ喋ってきた。改めて人に喋って思ったのは、そーいやそもそも政治だの社会体制だのに興味持ってなかった俺が、なんでまた「赤」に興味を持ったのかってこと。ま、別に誰かに「赤」を強制されたわけじゃなく、それもまた「今の俺にとっての主体的な自由意志」なんだろうから、好きにしとけばいいと勝手に納得した。同じことだが、もともと農業に興味なんか持ってなかった俺が、何で今「百姓」やってるのかも疑問と言えば疑問である。それもまた「主体的な自由意志」の結果であって、もしいずれ飽きて新たな「自由意志」が芽生えることがあれば、それに従うまでのことである。
 んで、今日の話の中でも特に、Hさんが勤める農業高校の豚の話は興味深かった。まぁ今でもそうだが、俺は基本的に人間も動物も区別するべきではなく、単に同じ「生物」だと思っている。ただ、サドに感化されて以来、人間と動物の違いをあえて挙げるなら、「生殖に関係ない快楽享受の方法を創造・開発できるか否か」ぐらいのことは言えるんじゃないかと思っていた。
 俺は、「言語」「発話」というものの存在によって、人間と動物を区別するのは違うと思っている。どんな動物でも、例えば「鳴く」「吼える」等の形で「非言語的コミュニケーション」を取っている。その手段が、人間の場合は、たまたま「言語」「発話」と称される形で表れているだけのことだと思っている。
 よって、あくまでも(生殖に限らず)、「本質的に無意味な事象を創造・開発できること」ぐらいが、「人間性」といえる部分だろうと思っていた・・・まぁそれも、言語があるからこそ可能となっている、という見方もあるが。にせよ、カトリック的価値観の充満したフランス革命直前のヨーロッパにおいて、「人間性」の発露を大々的に進めたサドこそ、そんな時代における「人間性」確立の体現者だと思い、感化されたわけである。
 だが、今日聞いた話で判明したことは、どうやら豚も、(人間が教えなくとも)いわゆるアナルやオナニーを「創造・開発」しうる、という事実であった。目からウロコである。だとすると、「人間性」としてかろうじて認めていた「創造・開発」すら、人間独自のものとは言えなくなってしまう・・・今日の話で、人間と動物の区別は、俺の中ではなくなってしまった。

2007年3月23日
 曇
 農研総会があったことだし、やはり農業がらみの具体的な話、農協青年部ネタでしめようと思う。もちろん「赤い話」であるから、「農協青年部」を、「今の世の中」とか「資本主義社会」などと重ねたつもりだ、ってか、結果的にやっぱりそうなったと言うのが正しい。
 さて。農研のメンバーが集まると、しょっちゅう出る話が、「農協青年部、めんどくせ〜、ヤンダハ〜」というものである。いわゆる役に就く(ように仕向けられる)のがヤンダというものから、役に就かなくても青年部の活動自体がヤンダというものから、そこに集まってるメンバーがヤンダというものから様々である。
 俺は農協青年部に属してないので、その具体的活動内容・実態については聞いた話しか知らない。俺が知ってる農協青年部とは、農家の跡取りの若いモンが集まって、諸々の活動をする組織である、という程度・・・こう書くと、農研も同じ言葉で表現できると思うわけだが、とりあえずそれはいい。とにかく「青年部はヤンダ」という、メンバーの大多数に共通した意識があるようだ。
 で、そーいうグチを聞くのは、青年部に属してない身としてはぶっちゃけ「おもしろい」わけだが、それらのグチに対して俺が言うことは決まっている。身もフタもないと言われるかもしれんが、
 「そんなにヤンダなら、青年部なんか潰せハ」
 「おめーだけじゃなく、みんなそう思ってんなら、潰しても誰も文句ねーベシタ?」
 「ヤンダヤンダと言いながら、何で青年部を残す?」
 「潰すのが厄介なら、おめーだけでも脱退して行かなきゃいいだけだベシタ?」
 「おめーだけ脱退すると、残った人に役が回ったりで申し訳ない?あぁ、そいつもヤンダと思ってるわけだもんな。だったらやっぱし、青年部自体を潰すしかねーべシタ?」
 とか、こんな感じである。もちろん農研についても、「農研ヤンダ〜」な雰囲気が充満してきて変えようもなくなったら、俺個人としては「農研解散」を提案するつもりでいるし、解散が承認されないなら個人的に脱退するだけのこと。まぁ、そういう感じは今のところないから、これもとりあえずはいい。
 まぁそういう「ヤンダ〜」というグチに対して、いわゆる建設的な意見としては、例えば「じゃぁ、新しい活動とかを企画して、みんなにとってもっと意義のある組織にしよーとかは考えねーのか?」とかがありえるだろう。実際、そういう話をしたこともある。だが、「んなの考えること自体めんどくせーし、新しいことするってだけで、みんなめんどくさがってしねっそ」とか返ってくる。そもそも、青年部のメンバー自身が、自身の属する青年部という組織を、より良く意義あるものにしようという意識を持っていないことが伺える。とにかく、「メンドクサイ」、その一言で説明がつくらしい。
 んで、「じゃぁ、青年部のメンバーってのは一体、青年部に何を望んでるんだ?」と聞くと、そこで止まる。せいぜい、「例年やってきた活動を、無難にとりあえずやっとく、位のことしか考えてねーべな」というような答えしか返ってこない。だとすれば、やっぱり俺には「潰す」以外に考えられないわけだが、不思議なことに農協青年部は存続している。
 そんな農協青年部の意義を見るとすれば、「共同作業前後における諸々の経験」及び「共同作業成功後の達成感」とかだろう。それは確かに、人間が成長する上で貴重な糧となるだろうことは認める。だが、そもそも共同作業に伴う諸々の苦労ってのは、ヤンダと思う気持ちが全くないどころか積極的に取り組んでても、必ずつきまとうものである。第一、なんぼ積極的に取り組んでても、時々は「ヤンダ」と思うことがあるはずだ。よって、後の糧とするための「共同作業の経験」や「達成感」が貴重であることは認めても、それを得るためには、「必ず常にヤンダの感情を伴うことが不可欠である」、などとは言えない。もう一つ加えるなら、「ヤンダ」と思いながら終えた共同作業が与えるのは、達成感というよりむしろ「解放感」に近いんじゃないかと。
 まぁ青年部の外を見れば、例えば、青年部主催の祭りとかがあるらしいので、そーいうのを楽しみにしてる人もいるだろうことは間違いない。よって青年部を潰せば、そーいう人の楽しみを一つ奪うことになるのは否めない。あるいは、古くなったビニールハウスの被覆を回収・廃棄する「廃プラ回収」なんて活動もしてるわけで、それをアテにしてるハウス農家は困るかもしれない。ただ、だからって「青年部がなくなったらものすげー困る。あたしゃ生きていけないよ。」ということはないはずだ。祭りなんかあっちこっちにあるし、廃プラだって回収業者はいるし、あるいは自分で産廃処理場に持っていけばいい(実際、俺個人はそうしている)。
 そんな具合で俺は、青年部の活動とは一種の「ボランティア」みたいなもんだと思っていた。たぶん、青年部のメンバーもそう思っているだろう。だが、何か「違和感」を覚えたので、ちょっとWikipediaを検索してみた。したら、ボランティアとは、

 『ボランティアの3原則として、自主性、無報酬、公共性の全てが当てはまることをボランティアと定義するのが一般的である。』

 とあった。
 なるほど青年部の活動とは、一定の公共性を持っているし、料金は取っていても別に「報酬」になっているとは言えない。事実、「青年部の活動するぐらいなら、自分の家の農作業をした方が足しになる」というような話をよく聞く。すると、公共性・(実質的な)無報酬の2点は満たされるが、青年部活動をボランティアと呼ぶには、どうやら「自主性」に欠けると見ることができる。同じWikipediaの記述には、

 『動員・勧誘・強制などによる活動への参加は、本人の純粋な自由意思に基づかないので、厳密にはボランティアとは言えないが、日本では奉仕活動の同義語、無償で労働する意味の表現としてボランティアと呼ぶ場合もある。これは語源からすると明確な誤用だが、誤用のまま定着してしまっているのも事実である。』

 として、自主性・自由意志のない活動であるにも関わらず「ボランティア」と称するのは、「明確な誤用」とされている。なるほど納得。この文章自体はここで終わっているが、俺の勝手な推測を後に書き加えるなら、こうなる。

 『・・・自主性・自由意志に欠ける活動も「ボランティアである」とする認識が広く定着した背景には、おそらくは動員・勧誘・強制する主体による「本当の意図の隠蔽」「活動の美化」があったと考えられる。
 動員・勧誘・強制を「される側」からすれば、「あなたの活動は無報酬で公共性があるため、多くの人々に喜ばれ、感謝され、いずれは社会的に必要不可欠な活動・存在として認知されることになるでしょう」などとして、活動の美的側面を(直接・間接を問わず)訴えかけられれば、悪い気はしない。その効果によって、動員・勧誘・強制「しようとする側」の本当の意図(諸々の欲・利権・名誉など)を隠蔽すれば、隠蔽しない場合よりも活動参加者が増えることは自明である。活動参加者の意図に関わらず、活動参加者が増えれば増えるほど、あるいは必死に活動すればするほど、「しようとする側」の意図は、より一層満たされていくことになる。
 その一方で、「美的側面」を見て活動に参加するようになった人も、活動を続けるうちに「こんなつもりじゃなかった」「何かおかしい」と気づき始める。それでも、「自分の活動は無報酬で公共性があるのだから、意義がある」と自分に言い聞かせて活動する。疑問を抱いた段階で脱退すればいいのだが、多くの人はそれでも活動を続ける。この背景には、そこで脱退すれば、かつて「それが正しい」と認識して参加した自分自身の否定を意味するという、一種の心理的葛藤があると思われる。こうして、「続けることに意義がある」の精神で、疑問を抱きながらも活動を続けることになる。
 そして最終的に、「それがボランティアというものなのだ」という認識が広まっていき、自主性・自由意志のない活動も、無報酬・公共性が満たされるなら「ボランティアである」として定着したものと思われる。つまり、「される(された)側」もまた、図らずして「自身の活動を美化」して認識するようになってしまったと考えられる。「自分で自分を褒めたいと思います」の精神である。もはやそこに、自己批判や内省という態度は見られなくなり、観念の固定化が発生する。こうなると、自身が誤用・誤解していることに自身で気付くということが、ほとんど期待できなくなる。
 すなわち、誤用・誤解が「定着した」起源には、動員・勧誘・強制「しようとする側」による「本当の意図の隠蔽」「活動の美化」があった。しかし、「ボランティア」という単語・意味の明らかな誤用・誤解が維持され、「ボランティア」という単語・意味の正しい認識が失われたままである以上、それはもはや「される(された)側」による「自己矛盾の肯定」という、消極的態度の影響もまた、大きいと言える・・・』

 以上の『  』内の、「活動」を「労働」に、「ボランティア」を「仕事」にそれぞれ変換して、「無報酬」をカットして読めば面白いことになる。
 で、だ。こうして見た上で青年部の活動に戻ると、それは本来の意味でのボランティアではなく、極端に言えば「強制活動」「強制労働」に近いものがあると言うことができるのではないだろうか?・・・では、その「活動(労働)を強制する主体」とは何か?
 青年部に関して言うなら、いわゆる「目上の農業者」なり「青年部OB」なりの存在や言葉がそれに当ると言えるだろうか?確かにその影響は大きいだろう。だが、別に彼らが「青年部メンバーの手足に鎖をつけて」「ムチ打って活動させている」という現実はない。潰そうと思えば潰せる。にも関わらず、なぜか潰さない、潰せない。すると「活動を強制する主体」は、究極的には、青年部の外にあるわけじゃないと言える。
 つまり、青年部の内部の、青年部を構成する、青年部のメンバー自身が、「ほかでもない自分自身に対して強制」していると言うことができよう。
 青年部に関して、俺が思うところをつらつらと書いてみる。

 『いーから、とにかく一回潰してみろって。別に生き物じゃねーんだから、潰したからって、青年部ってのが永遠に復活できねーってわけじゃねーべ?
 代々引き継がれてきた歴史のある青年部だから守んなね、とか言うか?守る理由は何だ?「代々引き継がれてきた歴史があるから」か?答えになってねー。「俺ら後輩のために残してくれたし、実際にためになってるから守る」ってんなら分かる。でもよ、それが単なる「重荷」とか「縛り」になるんなら、別にムリにアリガタがって守る必要はねーんじゃね?もし先輩らが後輩のためを思ってがんばって苦労して残したにしても、実際に「後輩のためになってない」なら、自分が残したもので苦しんでる後輩の姿ってのは、先輩にも心苦しいものがあるんじゃねーか?もしそう思わねー先輩なら、単なる後輩イジメだべ。
 何?先輩もやっぱりそうやって重荷を背負ってきたから、俺らも同じ重荷を背負わんなねってか?じゃぁなんだ、わざわざ代々苦しんで活動することを運命付けられてるってか?細木数子じゃねーけど、「運命は変えられる」んじゃね?変えようとしねーから変わらんだけだっつーの。別に、受け継いだものを捨てたからって、先輩の人格そのものを否定したり、その苦労を否定したりしてるわけじゃない。苦労したという事実、それはそれで、素直にすげーと認める。でもよ、その苦労を認めることと、残したものを認めることは、それぞれ別の問題なんじゃねーのか?そうやって引き継いだものが、先輩には苦労するだけの意義あるものだった、でも、後輩にはそういうものじゃなかった、と。それだけのことじゃねーか?
 いやだから、「ムダな努力しやがって」とかバカにするわけじゃない。それは失礼だ。ただ、「先輩そのもの」に対する評価と、「先輩が残したもの」に対する評価は別々に考えるべきで、一緒くたに扱える性質のもんじゃないって言ってるだけだ。んー、例えばだ。エジプトのピラミッド見て、「今だったら重機とか使って楽に作れるのに、古代人はバカなことをしたもんだ」とか思うかもしれねーよ。でもよ、当時は重機なんてなかったわけだ。そう考えたら、その苦労自体、成し遂げたこと自体はすげーと思えるべ?でも、そう思うことと、目の前に残されたピラミッドに対して、貴重な遺跡だと見るのか、単にデカくて邪魔な建造物だと見るのか、これがなけりゃ組体操のピラミッドなんてしなくて済んだべな〜とか色々思うのは、別の問題だべ?
 何?「俺の代で潰した」ってレッテル貼られたくない?あのな、「産みの苦しみ」って言葉があんべ?何か変えたり新しいことすっときには、痛みは避けらんねーのよ。そりゃ、レッテル貼られんのはすげー痛いかもしれん。でもな、例えば「弱パンチをずーっと受け続ける」のと、「強パンチ何回かで済む」のと、どっちがいいかって考えてみ?何?強パンチ食らったら死んじまうってか?んー、そーいうこともあっかもしんねーけど・・・まぁいいから聞けって。
 青年部潰したとするべ?青年部潰して解散した後で、「めんどくさかったけど、やっぱり青年部は○○とかの意義があったんじゃねえか?」とか、「もう一回みんなで集まって、こんな企画をやってみてぇ!」とか、外の人からだったら例えば「あの祭りは、他にはない青年部ならではの祭りだった。ぜひまたやってほしい。」とか、自然とそーいう気運が出てくるなら、青年部は必要だってことになって、再結成されると思わねーか?まぁ、こうなった場合は確かに、潰した当事者が「強パンチ」食らう形になるわな。でもよ、もし再結成して集まったのが「潰したはずの青年部」と同じメンバーだとしても、そん時は今よりもっと意義のある活動ができると思えねーか?それはそれで、一回潰したことで青年部が変わったってことで、自信持っていいんでねーか?
 んで逆に、そーいう再結成の気運が出てこねーなら、やっぱり青年部は不要だったってことが証明されるだけのことだべシタ?みんなが「ヤンダヤンダ」と思いながら「無難にとりあえずやっとく」なんて状況より、よっぽど良くなったわけだ。だったら、レッテル貼られようが「実際に良くなって」んだから、周りから何言われたって、潰したことに意義があった、って自信持ってりゃいいのよ・・・これって合理化って言わねぇか?
 みんなが「青年部を今よりもっと良くしよう」とか思ってアレコレ考えられるうちは、組織とか活動とかの合理化で十分だろうよ。でもよ、そーいう思いさえ出てこねぐなったら、合理化しようにもできねーべシタ?だったら、合理化できねーできねーと悶々たる中で活動してねーで、一回潰してみるのもアリだと思うわけよ。俺は。
 行き詰った組織の合理化ってのは、「組織の解体」ってのしかありえねーんじゃねーの?じゃなきゃ、何かおめーの考える手はあんだがシタ?それとも、ずーっと弱パンチ受けながら青年部続けるか?』

 と。
 
 いいだろう。差し当たり十分だ。引き際も肝心。これ以上書くと、「書かねばならない」などという下らない強迫観念に捕らわれ、俺自身が生み出した「赤い話」から「疎外」される。誰が直接に困るでもないわけで、あくまでも、「主体的な自由意志」の下、また書きたくなったら書けばいい。ただ、それだけのことだ。

2007年3月22日
 曇後みぞれ
 農研総会。会計として留任。
 さて。
 あっちこっち方向性を定めず書きながら、強引にまとめてきた感は否めないが、そろそろ終わりに向かわせよう。
 百姓など、いわゆる第一次産業に共通するであろう「本来の感謝の方向」の認識。つまり、「カネをくれる人に感謝すべし」とは、あくまでも資本主義社会だからこそ生じる独自のもので、本質的には「価値を生み出し、社会を作り、維持する労働力に感謝すべし」という意識。これが広がっていけば、全てが変わるきっかけになりうると思うのだ。
 『共産党宣言』(岩波文庫第85刷)から一つ引用しよう。

 人間の生活関係、社会的人間関係、人間の社会的なあり方が変化するとともに、人間の観念や意見や概念もまた、一言でいえば人間の意識もまた変化するということを理解するために、深い洞察力が必要であろうか?
 思想の歴史の証明するところは、精神的生産は物質的生産とともに作り変えられるということのほかに何があろうか?ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想にすぎないのである。(p66)

 あるいは、相田愼一の『経済原論入門』(ナカニシヤ出版第1刷)が、分かりやすく説明してくれている(太字も原典どおり)。すなわちマルクスの歴史・社会観とは、

 ひとつの歴史的社会体制の全体を「人間の精神的活動の所産」である「法律、政治、国家制度、イデオロギー、思想、芸術」などの上部構造と「物質的生活」としての下部構造(=経済構造)とに二分し、上部構造が下部構造に「反作用」を与えることを認めつつも、究極的には下部構造が上部構造を規定するという観点を取ることである。この観点は、人間の「意識や精神」のあり様がその人間の存在や経済活動を規定するのではなく、逆に経済生活における人間の存在がその人間の「意識や精神」のあり様を規定するというものである。(p33)

 現代に即して言うなら、一人一人の具体的生活行動に応じて、法律とか政治とか資本主義思想とかが維持される、ということになる。もちろん、「資本主義社会に生きているから、資本主義思想を持つ人間の生活行動が現れる」、ということもできる。しかし、資本主義思想とて、何もないところからいきなりポーンと生じたものではない。例えば、聖徳太子が生きていた時代には資本主義思想なんてなかったはずだ。それは、そういう思想(上部構造)が生まれるような、人間の生活行動・経済構造(下部構造)がなかったからである。
 時間の流れと共に人間の生活行動も変化し、それに応じて人間の意識も変化する。その意識に合わせて、その時代の指導者(マルクスの言葉では支配階級)は、法律や政治体制を作り上げる。つまり、「下部構造が上部構造を規定する」。そして、時間が経過していくと共に、そういう法律や政治体制や思想が、人間の共通した意識となっていく。つまり、「上部構造が下部構造に反作用を与える」・・・この初期の時点では、「反作用」はほとんどなく、下部構造からの「規定」とほぼ一致するため、バランスが保たれ、大きな社会矛盾は発生しないだろう。
 ところが、同時に時間も流れているから、また人間の生活は変化し、一時は共通と思われていた意識も変化していく。にもかかわらず、かつて指導者だった存在は「支配階級」として存在し、意識の変化に応じた法律や政治体制や思想を認めない。よって、その時代の支配的思想(上部構造の反作用)は、その時代の人間生活の変化から生じた意識変化(下部構造からの規定)に合わなくなり、革命などで「ひっくり返される」(下部構造が上部構造を規定する)。
 そういう意味では、もし共産主義思想に基づく社会が成立したとしても、それは永遠不変のものではない。マルクスにとってどうかは知らんが、少なくとも俺はそう思っている。実現した後で、社会はどう変化していくか・・・それもまた、時代の流れが答えを出す問題である。
 ともあれ現時点では、どこかで「今の資本主義体制は何かおかしい」という意識を持つ人は少なくないはずだ。「おかしい」という意識を持ちながら、「おかしい」社会体制に沿うように生活行動を取る。そうしているうちに、その行動は、さも「何か自分の外側から指示されたわけじゃなく、自分が自由に主体的に、そういう行動をするように意識したから」現れた行動であるかのように錯覚してくる・・・しかし、事実は違う!今や「自分の主体的自由に基づく行動」は存在しえないのである!「自分が自分の自由意志でそう行動するように決定した」と思えることすら、知らぬ間に「資本主義社会の思想に沿うように」という暗黙の条件の下で「自由」に、決定「させられている」のである!
 例えば、「今の会社の仕事はつまらない、今の会社には出勤したくない」という意思。それは、資本主義思想も含めて「自分の外側の存在」に縛られない「主体的で自由な」意志である。にもかかわらず、「別な仕事に就くにも、そう簡単に職場は見つからない」とか「出勤しないと、クビになって給料が貰えない」とか、資本主義的な思想が足かせとなって、その「主体的で自由な意思」を封じ込める・・・これが、上部構造による下部構造への反作用である。
 そして「つまらないけど、俺は俺の意志で出勤する」というのが、間違いなく自分の「主体的な意思」だと思い(あるいは思い込ませて)、出勤する。ここでのポイントは、彼は「今の会社の仕事がつまらない」と思っているだけで、ニートとか引きこもりとかを別にすれば、決して「そもそも仕事なんかしたくない」とは思っていないことである。むしろ「もっと自分の能力を活かせる職場で、仕事をしたい」と思っているであろう。その願いが叶えられ、実際にそうなった場合、おそらく彼は「仕事がつまらない」とか「出勤したくない」とは思わなくなるはずだ(少なくとも当分は)。俺の場合で言えば、そういう「能力を活かせる職場と仕事」が与えられ、かつ「食うに困りさえしなければ」、例え給料が安くとも文句などない。
 まぁ「食うに困る」ってのがどの程度か・・・文字通り「メシ食うだけでギリギリ」という絶対的な基準から、「お隣さん・ご近所さん(あるいは中流と言われる)ほどの暮らしができない」という相対的な基準まで、人によってイメージの違いはあるだろうが。
 ともあれ、おおよそ人間が抱く「仕事への不満」というのは、上記のいずれか一方(もしくは両方)に理由があると思う。つまり、
 「食うには別に困らないが、能力を活かせない」
 から不満なのか、
 「能力は文句なく活かせるが、食うに困る」
 から不満なのか、
 最も悲しい場合として
 「能力が活かせないばかりか、食うにも困る」
 という、大きく2パターン+1パターンである。無論、
 「食うに困るなんて考えられず、能力も100%活かせる」
 って人もいるだろうが、そういう人はそもそも「仕事に不満」など抱くはずがないのは自明だ。
 資本主義社会は、その驚異的生産力によって膨大な価値・商品を生み出した。今や社会で人々に消費されずに余りまくって、捨てられるほどである。それは、素直にすごいことである。
 この状況下で、各人が環境や条件に縛られず、その能力を発揮できる仕事を得る体制が整えば、まずは「能力を活かせない」という不満は解消する。しかしそうすると、文字通り「メシ食うだけでギリギリ」という状況になるのでは?という不安が生じるだろう。
 だが、価値・商品は、「労働力の注入によって生み出される」ことを思い出して欲しい。つまり、「価値・商品を生み出す労働力の総量」が同じままならば・・・労働力を持つ人間の数、および過去の労働力が注入された施設や機械などがそのままならば・・・例え共産社会になったとしても「全ての人がメシ食うだけでギリギリ」なんて状況にはなりえない。だから、革命においても「物理的破壊」は原則禁止なのである。
 また、「環境や条件に縛られて能力が活かせない」から「その仕事がしたくない」と思えるわけで、一般に人は(何にも縛られない自由意志として)「仕事そのものをしたくない」と思っているわけではない。すると、「共産社会になると人は仕事をしなくなり、社会が崩壊する」などということは考えられない。
 自分の能力を活かせるなら、人はその仕事を面白いと思えるから、嫌がることなく仕事をする(=労働力を注入する)だろう。まぁそりゃ、資本主義社会の下でやっていたほど「必死」には労働しないだろう。例えば俺なら今、ハウス3棟でトマトを作ってるわけだが、もし共産社会になればたぶん半分ぐらいにするはずだ。なぜなら、その面積なら俺の(こだわりとかを含めた)能力を100%活かせるだろうし、仕事も「全面的に面白い」と思えるだろうから。もちろん、俺は厳密な経済学者じゃないから、具体的な数字について断言はできないが、たぶん全てのトマト農家が、栽培面積を今より相当減らしても、「生産物がほとんど捨てられることなく、ムダなく消費される」という条件が整えば、今の半分の生産量になったとしても、必要十分な量を社会に供給できるだろうと漠然と思っている。
 もし、例えばトマト農家みんなが面積を減らしても、「捨てられたりしなければ、社会全体として必要十分な量が供給される」という主張における、「問題のない削減面積」が正しく計算され、実施されたとする。すると、それまでの「豊かさ」を失うのは、必要以上に消費したり捨てたりしていた資本家階級のみであって、社会全体としてはほとんど影響がないことが分かる。その意味で彼らは「共産主義社会になると、人々は貧しくなる」と主張するわけである。そりゃそうだ。そこで言ってる「人々」は、資本家階級のこと「だけ」を指しているんだから。その意味では確かに、共産社会になると「(資本家階級の)人々」は、今よりも貧しくなる。だが、「メシ食うだけでギリギリ」なんて状況にはならない。
 んで、そもそも「仕事自体」がつまらないのではなく、「仕事を取り巻く環境・条件」がつまらないから、仕事もつまらないように思えるだけである。よって、「人々がみな、各自の能力に応じた仕事をできる環境・条件が整うなら」「人々が生きるうえで必要十分な価値・商品は生み出される」から、社会全体が貧しくなるということはありえないのだ。
 そういう思いの下で考えてみる。すると、今の資本主義社会では、俺が「必死になって」労働力を注入して収穫したトマトの大部分は、たぶんまともに消費されずに「ゴミ」として捨てられているんじゃないかと思っている。思っているだけじゃなく、それが事実のはずだ。無論、例え最終的に誰かに食べてもらわずとも、「市場で売れさえすれば」確かにその段階で「カネ」にはなる。だが、最終的に消費されずに捨てられているなら、例え「カネ」が手に入ったとしても、それは「必死に労働力を注入した」百姓としては非常に寂しく空しいことである・・・これは、百姓なら誰でも共感できるんじゃないだろうか。
 宅急便バイトでも同じことを思った。お歳暮の時期には、たくさんの荷物を抱え、時間を調整しながら必死に配達(という労働力を提供)した。が、例えばつい先日配達に行った家に、新たに届いた荷物を配達した時、その玄関に「先日、俺が配達した荷物がそのまま」放置されてるのを見ることが多々あった。それも、毎度毎度増えていき、配達した荷物は確かに受け取ってくれるが、開封されることなくそのまま玄関先に積み上げられていった・・・これは、必死になって注入した俺の労働力が、「ムダに捨てられている」のと同じであり、何ともやりきれない思いを抱いたものだった。別にそれでも、俺自身には時給という「カネ」は払われる。だが、このやり場のない空しさは何だ?と。
 俺は差し当たり「百姓」と「宅急便」という仕事からしか言えないが、おそらくこれは、「労働力を注入したことのある」全ての人に言える、普遍的な事実だと思うのだ。すなわち、己の労働力がムダに捨てられずに「何かの役に立ち」、あわよくば言葉だけでも態度だけでもいいから「感謝」されることで、労働力の注入に要した苦労が「むくわれる」のではないか、と。そしてそれが、「また仕事をしよう」という、大きな原動力になりうると思うのだ。
 ところが、「むくわれない」という現実(下部構造)が、「なら、カネが貰えりゃいいや」という意識(上部構造)を規定し、そういう社会にしているのではないか?そういう社会は、寂しく、空しいとは思わないか?・・・特に我々、百姓よ!
 間違ってはいけない!「必死に仕事をしないと、人々は暮らせない」という言葉は、確かに一面では事実だ。だがそれは、「(労働者たる会社員が)必死に仕事をしないと、(資本家たる一部金持ちの)人々は暮らせない」と言っているだけなのだ!この資本主義社会での「必死の労働」は全て、能力給などとして自分に返ってきているように見えても、本質的には「一部の金持ち」を支えるための労働として、無償奉仕させられているだけなのだ!資本家、つまり一部の金持ちさえ消滅すれば、今ほど「必死に」労働しなくとも、問題なく生きていけるのだ!
 共産主義思想は、「誰も労働しなくて済む社会を作る」などとは一言も言っていない。「仕事をしなくても生きていける社会」だと?そんなことを誰が言った?確かに、誰も「今ほど必死には」仕事をしなくなるし、むしろその必要がなくなる。「必死に仕事をする」ことだけが「仕事をする」という言葉の意味ならば、「共産社会では誰も仕事をしない」という表現も正しいことを認める。だが、文字通りに誰も「全く」仕事をしないのではない!誰も「今ほど必死には」仕事をしないで済むだけである!それを「怠け者根性」と呼ぶのなら、資本主義思想に毒されている証拠だ!「必死に仕事をする」態度が美徳とされるのは、資本主義社会を支配し、その必死の仕事の成果を「搾取」し「独占」する資本家側の思想に過ぎない。それほど必死に仕事をしなくとも、社会は十分に維持される。
 もう一度言う。共産主義思想はただ、今ほど必死に仕事をしなくても、人々が「能力に応じた仕事を満足にこなし、その苦労がむくわれ、食うにも困らない」社会を作ろうと、そう主張するだけなのだ!

 うん、そろそろだ。

2007年3月21日
 晴
 午前中はHさんの定植手伝いに出た。
 さて、赤い話だ。
 「カネをくれる人への感謝」・・・それが、「事実」からすれば転倒した意識であることは既に見た。そして、人間社会の構成物の全ては、究極的には「自然力」に由来しており、その「おかげで生きている」ことを常に認識せざるを得ない「百姓」の立場を確認した。
 おかしな言い方を承知で言うなら、「自然が(タダで)提供してくれる労働力が農産物を生産するから、百姓は生きていくことができる」わけである。「百姓が田畑を持っているからこそ、そこで自然が労働力を発揮できる」と認識するならば、それは「事実誤認」であることが明らかだし、そう考える百姓など存在しない。「本当に感謝・尊重すべき相手」を、百姓は見失わない。見失いかけることもあるかもしれないが、自然の中で仕事をする立場上、完全に見失うことはありえない。
 だが、やはり百姓とて資本主義社会に生きているからには、その思想の影響を大きく受ける。農産物が「単に食い物」である段階、すなわち自身が収穫したものを自身が消費する段階では、まずは第一に「がんばった俺様に拍手!」となる(俺の場合)。次に自分の外側に感謝するなら、それは「自然」へと向けられ、「実らせてくれてありがとう」となる。ところが、「単に食い物」だったものが「商品」となった瞬間から、感謝の方向(というか比重)が、「商品を買って、カネをくれる相手」へ向いてしまう。商品を生み出してくれた「自然」に対する、感謝の気持ちが薄れがちになる。
 ・・・自然、自然と、別に、「自然崇拝」の話をしようとしているわけじゃない。要は、本来ならば「感謝の方向」ってのは、単にカネだけを見て、
 カネを貰う側 →感謝→ カネを払う側
 っていう一方通行のものではない、ということである。そりゃ、「カネの行き来だけ」を見ればそうなるが、カネの行き来があるということは同時に、何らかのモノやサービスという「商品」も行き来しているということを意味する。この場合、「商品」を受け取る側(=カネを払う側)がそれを欲するのは、「自分自身にない」「自分自身ができない」からである。「自分になくて、欲しいモノ」を提供してくれるわけだから、提供してくれる相手に対する「感謝」があってもおかしくない。その、「提供してくれる相手」として、百姓から見た「自然」という存在を持ち出しただけのことで。
 マルクスの図式で言えば、「カネを貰う側」は労働者で「持たざる者」、「カネを払う側」は資本家で「持てる者」、ということになるが、これは「資本」を基準に捉えた場合である。「労働力」というモノを基準にした場合は、全く逆転することは言うまでもない。つまり、
 モノ(労働力)を提供する側 ←感謝← モノ(労働力)を享受する側
 の関係が成り立つのである。ところが、資本主義社会ではこういう視点が失われ、単にカネの行き来から見た感謝の方向を基準にした人間関係・社会関係が生まれることになる。
 すると、「人間にとって価値がある」という意味では、モノやサービスという「商品」にこそ価値が宿っているにもかかわらず、さも「カネ」にこそ価値が宿っているかのような社会が成立する。「人間はカネを食ってるんじゃない!メシ食ってんだろーが!」と書いたのは、ここの点なわけである。で、その「価値」の由来を、今ので言うなら「メシ(という商品)には、なんで価値があると言えるのか?」を考え、究極的には「人間の労働力(の注入)」に見たのがマルクスだった。(っても、その原形はイギリス古典派経済学って人たちが言ってたものらしいが。)
 例えば、ここに成長したトマトの苗があるとする。その苗には、まだ青くて未熟な実もあれば、やや色づいて熟し始めた実もあれば、既に赤くなって食べごろの実もある。そういう「いろんな実をつけたトマトの苗」という存在を、人間が見ただけの、「ただそこに存在するだけ」の状態におけるトマトには、まだ「(商品としての)価値」が宿っていない。ところが、それを見た人間によって、「いろいろある実の中から、食べごろの赤い実だけを選んで収穫する」という労働力を注入されたトマトには、「価値が宿り」「商品となる」というのが、マルクスの言う「価値」「商品」である。
 なお、トマトには栄養という価値がある、とか言う意味での「価値」とは違う。それは自然のまんまで人間が労働力を注入しなくても、トマトが「元々持っている価値」で、マルクスが言ってる価値とは異なる。「赤い実を選んで・・・」というのがしっくりこないなら、労働力の注入として例えば「より甘くなるように、水やりの量を控える」という労働を考えてみる。こうした場合、「元々栄養はあるが、そこに甘い味、という形で価値が加えられた」と見る。そんな感じで、「労働力」という言葉で表現されているのは抽象化された「何らかの人為」で、それが加えられることで、「商品としての価値」が生まれると言ってるわけである。
 逆に言うとマルクスは、「ただそこにあるまんまで、人間の労働力が注入されていないモノ」は、「あるまんまで終わり、新たに価値を生み出すことはない」と言ったわけである。
 このことから、俺が育った町の特産品である、「焼き物」を例にしてみよう。焼き物を作るには、まず「粘土」が必要である。しかし、「ただ山にある粘土」には何の価値もない。それを陶芸家が形にしたり釉薬を塗ったり焼き上げたりと「労働力を注入」して初めて、ただの粘土が「価値」を有する「商品」となる。もちろん、陶芸家が「粘土」から「焼き物」を作り出す前の段階で、「粘土」そのものも既に「労働力」を注入され、「商品」になっている。すなわち、「採掘場で粘土を採掘する」という労働力が注入されている。
 「パソコンを買っても、置いておくだけじゃ意味・価値がない」っていう話もまさに同じである。それが会社の事務所にあるとして、社員の誰かが、例えばワープロソフトで文章を書くとか、表計算ソフトでデータの分析をするとかといった「労働力」を注入して、できあがった文章なり分析結果なりといった「価値」「商品」が生み出される。「労働力」が注入されて初めて「価値が生み出される」のであって、「ただそこにあるパソコンそのもの」から価値が生まれたり増えたりするわけじゃない。ただし、パソコン単体で価値を「生み出す」ことはないにせよ、その事務所に置かれるまでは、パソコンも「(価値を持つ)商品」だった。当たり前だが「人間の労働力が注入」されている。トマトと粘土っていう自然物から、いきなり人工物に飛んでしまったから逆に戻っていけば、個々の部品を作る労働力があり、部品を構成する金属だの樹脂だのの素材を作る労働力があり、樹脂なら原料から合成樹脂にする労働力があり、樹脂の原料は元をたどりまくると原油だから原油を採掘する労働力があり・・・と、パソコンそのものも、複数の労働力が注入された「商品」である。ハード面ばっかり挙げたが、新しいソフトの開発というのも、れっきとした「労働力」の注入である。
 長くなったが、もう一回マルクスが言っていたことを確認すると、
 @自然とは、「そこに存在するだけ」では、(人間に有益な商品としての)価値を持たない。
 Aしかるべき人間の労働力を注入されて初めて、「価値を宿した商品」が生まれる。
 Bそうして生み出された商品はもちろん「価値」を有するが、そのままであれば「新たに価値を生み出す」ということはなく、単に消費される存在として終わる。
 Cしかし、生み出された商品に、さらに人間の労働力を注入すると、別の価値を持った商品が生まれる。
 ということである。
 してみると、
 「カネをくれる人に感謝すべし」
 というのは表面的な認識に過ぎず、
 「労働力を注入して新たな価値を生み出し、社会に役立つ商品を作る人に感謝すべし」
 と考えるのが正しく、突き詰めて言えば、
 「人間社会を成り立たせている、全ての人間の労働力こそ、感謝され、尊重されるべき対象である」
 という事実も明らかになってくる。
 このようにして生み出される「価値を宿した商品」、および「その商品に労働力を注入して新たな価値を宿した商品」、および「その商品に・・・・・」という一連の流れがあればこそ、すなわち「積み重ねられた人間の労働力によって」、人間社会は成り立っていると言っているわけだ。まぁ、俺の場合は「自然力」まで遡ったわけだが、マルクスは「労働力」までのことで考えた。「原始共産社会」までは想定しても「自然力」まで考えなかったのは、もしかしたら西洋人の自然観(自然は人間と対立するカオスな存在である、みたいな)に理由があるのかもしれんが、話が違うのでやめる。
 んで、こうして「労働力」と「商品」の関係を見たうえで、改めて資本主義社会を見るわけだ。すると、「価値を生み出す労働力」の持ち主である労働者が、なぜか生み出した程の価値(=商品)を手にしていなくて、逆に「単に商品(工場とか機械とかあるいはパソコンだっていい)」を持っているだけの資本家が、なぜかロクに労働もしないのに多くの価値(=商品)を手にしているという現実がある・・・
 それじゃおかしいべ!商品は「ただあるだけ」じゃ価値を生み出したり増やしたりしないはずだべ!なのに「持ってるだけ」の資本家が、やたらと「生み出された価値」を持ってるのは何でだ?それは、労働者の労働力が生み出した価値を、資本家が「搾取」してるからだべ!そんなおかしなことになる資本主義社会は許せねーべ!元々、その価値を生み出したのは労働力を注入した労働者なんだから、労働者によこせ!今の資本主義社会ではそれができねーってか?だったら、注入した労働力に応じた価値を、労働力を注入した本人が手に入れることのできる共産主義社会にするべ!ってのが、マルクスの主張なわけである。
 ・・・で、俺はそこからもう一歩遡って、自然という「(ある種の)労働力を持つ存在」に対して、ごく普通に「感謝する」ことができる百姓なら、この資本主義社会において「カネを払う人に感謝する」「カネを払う人が偉い」という転倒した意識・幻覚にもどこか疑問を感じ、「何かおかしいべ?」と言うことができるだろうと思い至ったわけである。そーいう意味では別に百姓に限らず、漁業・林業といった、いわゆる第一次産業に携わっている全ての人が、同じ視点を共有できると思うのだ。

 そろそろ終わらせないと・・・


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