http://www.agrik.info
■Home お問い合わせ・「戒め」は・・・スパム対策として、アドレスの画像表記を行っています。
  ※管理人からお願い・・・初めて来られた方で、しかもジックリ読む気のある方は、最初に 『このサイトの目的』 を御覧ください。断り書きがあります。
  ※リンクについて・・・・・・当サイトはリンクフリーですが、リンク先はトップページにお願いします。相互リンクご希望の方は コチラ を御覧ください


←3月上旬へ  過去の日誌倉庫へ  3月下旬へ→
2007年3月中旬の作業日誌
2007年3月20日
 雪一時曇
 さて。「革命前の覚醒」、すなわち「事実に目を向けるよう促すこと」。この主体となるのが、なぜ百姓なのか。
 それは、百姓は常に、「絶対に揺るがない事実」と向き合っている存在だからである。
 まず、百姓なら言うまでもなく分かることを挙げてみよう。
 @食い物たる農産物は、百姓が作ってるんじゃなく、自然が作っている。
 A例えば、土とか肥料分とか水とかをこねくり合わせ、温度とか光を当てて「ろくろ」の上で形にしたりとか、百姓はそーいう風に「作っている」わけではない。
 B百姓は、自然にちょこっと手を加え、収穫した農産物を社会に流しているに過ぎない。
 C百姓自身が収穫した農産物を「百姓自身が食う」なら、その農産物は単に、「食い物」としての存在である。
 Dしかし百姓は、「自分で食いきれる分以上(=余分)」に収穫できる能力を持っている。
 E自分の口に入らない「余分」な農産物が、はじめて「商品」という存在になり、「カネ」になる。
 ごくごく、当たり前のことである。
 もちろんそれは、諸々の農機具の存在や、農産物の種類を特化していること、すなわち「社会的分業の功績」によって可能となっている。もし、機械が一切なく、百姓自身が食う多種多様な農産物を相手にするとなれば、今ほど「余分」な農産物を収穫することはできない。ヘタをすれば、自分と家族が食っていくのにギリギリの食糧しか確保できないだろう。もしそうなれば、人間のほとんどは百姓になって、まずは自分の食う分を収穫するべく労働しなければ「生きていけない」社会になる。
 例えば俺の場合、トマトを相手にする百姓だからって、当たり前だが「トマトだけを食ってる」わけじゃない。トマトに特化し、「トマトに限って見れば」自分が食いきれないほどのトマトを収穫し、「商品」とすることで「カネ」を得る。んで、トマトに特化しなければ「買う」こともなかったであろう、米なり野菜なり肉なりと諸々の食い物を、「カネ」と交換で手に入れる。
 ここで注目すべきは、そうして1年間「商品としてのトマト」を「カネ」に換え、そのカネでトマト以外の食い物を買ったりしても、「食糧を得るためのカネ」だけで全てが飛んで消えていくかと言えば、そーでもないということ。例えば「本」なんてのは、なくても生きていけるわけだが、そーいうのを買う「余分なカネ」が残る。あるいは「家族旅行」「子供の学校教育」なんてのも、全くしなくたって「生物としては」生きていけるわけだが、そーいうのに費やす「余分なカネ」が残る。もちろん、「労働しない家族(=子供)がいないから」と見ることもできるが、例え子供がいる百姓でも、以上のような意味、つまり「ただ生物として生きていく以上に余分なカネ」は残るはずだ。
 要は、だ。元々の元々のそのまた元々は、自然からは「自分(とその家族)が、なんとか生きていくだけ」ぐらいしか得られないはずなのに、なぜか「余分なカネ」が残る。いや、企業的に労働者を雇ったりして営農した場合に発生する「余分なカネ」は「資本の自己増殖」として説明できる。だが、全くの個人・家族でやってる百姓の場合、「労働者の持つ労働力の搾取」では説明できない。この場合に発生する、「余分」は何に由来するか?ってことである。
 「労働者の持つ労働力の搾取」って表現と対応させ、漠然たる表現を承知で言えば、その「余分」は、「自然界の持つ自然力の搾取」に由来すると考えられるであろう。
 本来、百姓自身のものではない「自然力」なのに、商品たる「農産物」に上乗せし、具体的には「価格」に反映させることで、「生きていく以上に余分なカネ」(誤解のないように改めて言うが、生物として生きていく以外に使われる全てのカネ)を得られているのである。んで、その「余分」を起源として「購買力」が発生する。タマゴが先かニワトリが先か、になる・・・つまり、「購買力」の発生が先か、「別に必要ないもの」の発生が先かはわからん・・・が、「余分」たるその「購買力」は、社会に存在する「ただ生きていくだけなら別に必要のないもの(例えば肥料)」を手に入れることで消えていく。
 ところが、肥料なら肥料で、一般的には「堆肥や肥料に使うカネ(=元は、余分に手に入れた自然力)」などとして、余分に得た自然力を返している「ように見える」。ところが、これが返すどころかより以上に自然力を引き出す結果となり、「さらなる余分」を生み出す。で、今度は「さらなる余分」を使って、例えば「農機具」とかを手に入れたりする。これらと同時進行だろうが、「余分な農産物」は「収穫しないでもいい人々」の存在を許す。彼らは、「収穫しないで済む」代わりに、「収穫する人々」のために何か便利なモノやサービスを作るようになる。それによってさらに「余分な農産物」は増え、「収穫しないで便利なモノやサービスを作る人」の種類も様々になり・・・社会的分業の始まりとして、よく知られた話だ。
 要は、百姓が自分の努力の結果だと思っている「余分」は、元をたどってたどってたどりまくると、自分のものではない「自然力」が蓄積した結果なのである。だからもし、自然界という存在に「私有」の概念があって、言葉があるなら、「それは元々俺のだから、返せ!」と言われる性質のものなのだ。しかし、自然界には私有概念も言葉もない。「返せ」と言われなかったから、元は目に見えなかった「自然力」は、目に見える「余分」として社会に蓄積していった。つまり、今この瞬間、目に見える人間社会の全ての構成物とは、例外なく「人類の農耕が始まった遥か過去から、今に至るまでにウン万年に及ぶ長い歴史の中で搾取・蓄積されてきた自然力」で成り立っていると言うこともできる。「返さないで済んだ自然力が、人間社会を豊かにしてきた」わけである。そして、肥料を例として見たように、「自然力」という抽象的な力は、返そうにも返せないらしい。つーか、もしかしたら返せるのかもしれないが、「どーやったら、こっちが余分に得ないでプラマイ=ゼロになるように返せるのか」が分からない。思いつくのは、「堆肥や肥料を投入するが、投入したその土地からは農産物を収穫しない」ってぐらいだが、それをすると、たぶん百姓は生きていけなくなる・・・違う話になるからやめよう。
 マルクスは、「自然力」までは遡らなかった。いや、もしかしたら遡って考えたかもしれないが、彼にとっては「もはや返しようのないもの」よりも、「返す気になれば返せるもの」の方が重要だったのだろう。いずれにせよ、彼の言う「労働力」に由来する「資本の蓄積」というプロセスも、以上見てきた構造とほとんど同じと言っていい。
 資本家は、自分のものではない「労働者の労働力」を、生産した商品の価格に上乗せして、「生きていくのに必要以上の余分なカネ」を手に入れる。そのつもりじゃなくても、そうなる。で、労働者から「返せ」と言われないから、蓄積する。いや、「返せ(=給料をよこせ)」と言われて、資本家が得た労働力の全てを「賃金」という形で返している「ように見える」「ように見えてしまう」。で、なんでか知らんが徐々に資本家と労働者の差が広がっていくが、単に「努力の差」「能力の差」として一般に認識され、「そーいうものである」「それが事実である」としてほとんど疑われることがない。
 確かに、「努力の差」「能力の差」という側面も「ある程度は」ある。しかし、マルクスが明らかにしたように、事実としては資本家の得た労働力の全てが返されずに「搾取」されているため、「努力の差」「能力の差」では説明できないほどに資本の蓄積が生じる。で、「返し方が分からない」自然力とは違って、労働力は「返す方法が明らかになった」のである。すなわち、どーやっても「搾取」が発生する資本主義社会を解体し、共産主義社会にするという方法が。
 そこで言ってる「平等」は、「賃金の平等」なんていう下らないことではない。そんなことをしたら、一般に思われているように「誰も働かない」だろう。マルクスの言う平等とは、「労働者が用いた労働力によって、用いた分の事実上の労働力が返ってくる」という意味での平等である。もちろん、この資本主義社会においても「能力給」などとして、同じ職場の人間でも給料に違いがあるだろう。その「考え方」は、共産主義思想でも共通する。個々の労働者によって、持っている労働力(能力や才能)は異なる。それを平等にすることなど不可能だ。ただ、マルクスの言う「平等」の基本は、「労働者間の平等」ではなく「資本家と労働者間の、人間としての平等」ということなのである。
 「社会的分業」が維持されている以上、労働者なら誰でも、自分の「ただ生きていくだけ」以上に「余分」を生み出すことができるし、事実として(なんぼ「使えない」と言われる労働者でも)、必ず「余分」を生み出している。ってことは、社会全体として見た場合、「余分」がたくさんある。にもかかわらず、その「余分」が、資本主義社会では、(努力や能力もあったかもしれないが、それだけでは説明できないほどに)資本家にばっかり集中していて、労働者に返されていない。その点で「不平等」だから、余分を生み出した労働者に戻るようにしよう、というのが、マルクスの主張である。つまり、百姓が「自然力を搾取」しているのと同じ構図で、資本家は「労働力を搾取」しているわけである。
 で、差し当たり「返し方が分からない、うまく返せない」から、自然力の犠牲の元に、人間社会は成り立っている。それは当面「仕方ない」として置いといて、まずは「返せる」部分から返しましょう、と。で、ここに俺のアレンジを加えるなら、その後で「みんなが返すべきものをどーやったら返せるか、考えていきましょう」ということになる。
 自明の通り、自然という存在に私有概念や言葉はない。が、「返せ」という意志があるとすれば、その表れがいわゆる「天災」とか「異常気象」だという風に理解することもできる。そう考えると、「自然力の返し方」としては今のところやはり、最終的・究極的には「文明の放棄」しか考え付かないわけだが・・・
 「自然力の搾取」で引きずってしまったが、差し当たりその搾取は、人間が生きていくうえではどーしようもない。だから、百姓にできることは、「おかげさま」「ありがとう」として、「搾取」を許してくれている、「自然という他者」に感謝する気持ちを忘れないことぐらいだろう。
 「自然という他者があるからこそ、(その犠牲のもとに)おかげさまで百姓は生きていける」・・・この「絶対に揺るがない事実」を常にナマで感じている百姓ならば、その逆、つまり「百姓がいるからこそ、自然が成り立っている」などとは絶対に言えないと分かっているし、そんなことを言う百姓はいない。
 ところが資本主義社会においては、その転倒した意識が容易に発生する。労働者がいるからこそ、会社が成り立っているにもかかわらず、いわく「会社があるからこそ、労働者は生きていける」・・・商売人が便利な商品やサービスを提供しているからこそ、客の欲望や願望が満たされるのに、いわく「客の私がカネを払うからこそ、あなた方商売人は生きていける」・・・そして労働者側も、「カネがあるからこそ、私は生きていける」「だから、カネをくれる会社やお客様には感謝しなければならない」・・・と、事実を転倒していることに気が付かないまま、根本的に間違った認識(しかしながら、それが「普通」と思われている認識)へと至る。

 まだ終わらん。

2007年3月19日
 雪
 マルクスの描いた「革命へと至るシナリオ」には、今や追加すべき重要な内容があるのだ。それは、「意識の上の金持ち」となってラリっている労働者の目を醒まし、「持たざる者」としての確かな自覚を促すことである・・・いや、100年以上前のマルクスとて、んなことは分かっていただろう。だからこそ「宣言」だの各種パンフレットだので訴え、気づかせる必要性があったんだろう。ただ、当時と今では「自分は持たざるものだ」「今、私有財産と思っているものは、実態としては財産ではなく、労働力再生産のために用意されたものに過ぎない」という自覚に至らせるまでのプロセスが、圧倒的に難しくなっているように思える。
 今や現実問題として、格差社会という「持てる者」「持たざる者」の階級の二極分化が進んでいる。にも関わらず、それでもなお「意識の上の金持ち」という快楽的幻覚に溺れて覚醒することのない労働者が、圧倒的多数を占めるという事実。これは当時の比ではないと思うのだ。これでは、いつまで経っても「革命の根源的対象の理解」に至ろうはずがない。
 もし、幻覚からの覚醒および「革命の根源的対象の理解」を待たずして革命が訪れたならば、それは単なる「物理的破壊活動による熱狂的お祭り騒ぎ」に終始し、不毛な結果となるだろう・・・間違ってはいけない!共産主義思想が革命によって破壊するのは、資本主義社会の「物理的資本」ではない!「破壊」の意味するところは、物理的資本を私有・占有している主体、すなわち資本家階級に属する人間の「社会的抹殺」であり、また、資本主義社会という「構造の解体」である。
 よって、まず気をつけなければならないのは、なんぼ憎かろうとも資本家を「(原則として)生物的に殺してはならない」ことである。労働者とて、「(一部は自殺などに追い込まれたが)差し当たり生きていける」程度に扱われたのである。既にハンムラビ法典が、共産主義思想に対し、平等原則に基づく罰のあり方を提示してくれている(まぁ、奴隷の扱いは平等じゃなかったみたいだが)。周知の通り「目には目を」であり、「目には顔を」などとは言っていない。すなわち、「やりすぎは厳禁」ということである。よって推奨されるべき彼らの扱いは、投獄と収容所労働のようなものだろう。かつて資本家が労働者を雇ったと同様に、労働者が資本家を雇う(その生産物は社会全体に還元される)のである。せいぜい殺さず、また感覚や意識を失わない程度に、肉体的・精神的苦痛を与えるに留めるべきである。第一、労働者階級は身に染みて知っているはずだ!それを受ける者にとって最も苦しい罰は「死刑」ではなく、「生かさず殺さず飼い殺し」であるということを。それに、一面では彼ら資本家とて、「資本主義思想」という、悪霊に憑依された被害者だと言うこともできる。
 そしてまた、革命における「資本主義社会という構造の解体」とはつまり、個別具体的には「会社を潰す」ことである。確かに「会社」には潰れてもらう。かと言って、文字通り会社の建物・工場・機械などを破壊するのではない!それではかつてのラッダイトと同じであり、いわば社会的オナニーであって、刹那の快楽に終わるのみで何も生み出しはしない!物理的資本は、原則として一切破壊してはならない!「革命の遂行上」、例外的に破壊が不可欠となる場合でも、必要最小限に留めるべきであるし、事実そうできることを確信する。革命が破壊するのは、「会社組織」という構造に過ぎない!物理的資本は、共産社会における生産力の基礎となるべき、重要な「未来の共有物」なのである!そーいう「使えるモノはとっておく」という、「持たざる者」ならではの「貧乏性」が存分に発揮されねばならない。そこにあるモノは、「持ち方と使い方さえ間違えなければ」、もう一度言う「持ち方と使い方さえ間違えなければ」、基本的には社会にとって有益な存在なのだ。
 で、会社の「物理的資本」を解体するのでないなら、会社の「組織」はいかにして解体するか?これは逆に「会社組織」が何によって成り立っているかを見ればガキでも分かる。つまり「会社組織」とは、「労働者が集合した全体機能そのもの」であり、周知の通りストライキ(労働者全員の)によって潰すことが可能となる。
 ただし、革命によって最終的に破壊すべき対象は、資本主義社会そのものである。この「資本主義社会」はいかにして潰れるか?同じく、それが何によって成り立っているかを見れば、やはり言うまでもない。「個々の会社が集合した全体機能そのもの」が、資本主義社会を構成しているのである。個々の会社単位での散発的ストライキは、歴史が証明するように「全体機能の内、一部の故障」という程度の効果に留まり、すぐに「修理」されて無意味な結果となってきた。すなわち、マルクスの言う通り、「全ての労働者階級の団結」による、「全世界規模での」「同時多発長期的ストライキ(=ゼネスト)」こそが、共産主義革命の最初に発生する具体的姿なのである!
 「経済は生き物」とはよく言ったものだが、経済とはむしろ「走っている自動車」である。外装をなんぼ傷つけようと、細かな部品がいくつか壊れようとも、自動車は走り続ける。しかし、その「燃料」を切らして補給が受けられなければ、そこで止まる。労働者一人一人の「労働力」とは、まさに資本主義社会という「自動車の燃料の一滴一滴」なのである。
 このように徹底したゼネストが、共産主義革命のスタートとなる。また、マルクスの言う「暴力革命」とは、労働者を会社へ復帰させるべく、資本家および資本家側に加担して出動する様々な暴力的権力保持者に対する闘争行為を意味しているに過ぎない。無差別な暴力を意味しているのではなく、あくまでも冷静に、対象を限定した上での暴力ということを忘れてはならない。
 ・・・って具合で、「不殺生」「非破壊」による「徹底したゼネスト」が、まさに「共産主義革命」におけるまず最初の段階の現象であろうと俺はイメージしたんだが、これだと「アナルコ・サンディカリズム」ってなるらしい。だとすれば「革命」の具体的現象ってのは他にあるのか?いや、労働組合が集まった、「それだけ」では単なる烏合の衆になるわけで、「国家」の概念が不要なのは認めても、何らかの管理・統制機構は必要と思いますよ。ええ。
 まぁいい。もう一回言うぞ〜。ここテストに出るぞ〜。
 幻覚の世界を彷徨い「意識の上の金持ち」となっている人々を覚醒させ、労働者階級に事実を明確に認識させ、「己の立場」を自覚させていかなければ、例え革命が現実化しても単なる物理的破壊活動に終わることは明白だ。また、「労働者階級」としての団結は当然ながら重要だが、それはあくまでも最終局面である。まず最初に「破壊すべき根源的対象の明確な理解」がなされるべきであり、それに続いて「労働者階級の団結の結果としての革命の実現」というのが、マルクスの描いたシナリオであると、俺は理解する。
 では、最初の「破壊すべき根源的対象」とは何か?『共産党宣言』(岩波文庫第85刷)はこう応える。

 かれらが破壊しなければならないものは、これまでのすべての私的安全や私的保障である。(p54)

 これを端的に言うなら、「会社に出勤していれば、給料(≒生活)が保障されている」という、今や個々人が「当たり前」と思い込んでいるその意識こそ、まさに「私的安全」「私的保障」であり、破壊すべき根源的対象なのである!その個々人の意識から来る行動こそが資本主義社会を支え、回りまわってその意識を持つ自分に対する「搾取」という形で襲いかかってきているのである!すなわち、共産主義革命の実現においては、それに先立って労働者自身の「意識革命」が必要だと言っているのである!革命を阻止する最初の敵は、何よりもまず「自分自身」の中に存在する!
 ・・・と、マルクスが用意した革命シナリオの、俺的な理解は以上の通りである。
 しかし、幻覚の世界を彷徨い「意識の上の金持ち」となっている人々を「覚醒」させる、という新たなシナリオが、これらの全てに先立たねばならないと、俺は思うのだ。
 そしてこの「革命前の覚醒」の第一歩は、例えば偉大な啓蒙思想家のような存在の登場を待つまでもない。
 「覚醒」の第一歩は、やはり我々「食い物を作る」百姓から始めるべきと考える。
 会社に出勤する際の意識に見られる「生活の保障」とは、「食っていく」ということと同義と見ていいだろう。だが、自明のことだが、人間は「給料(=カネ)」を食って生きているわけではない。
 もしもこれが意味不明なら、質問を変えよう。「あなたは、例えば茶碗に金属の小銭を盛って、紙の札束に醤油でもかけて、それらをムシャムシャ食って、それだけで食って生きていけるか?」と。
 人間はヤギじゃない。だいたい、ヤギだって紙ばっかり食ってるわけじゃないし、調べてみたら普通の紙は食わせないほうがいいらしいぞ・・・まぁ、それはいい。
 とにかく、人間は何を食って生きている?!
 やっぱりカネを食ってんのか?!
 さぁ答えろ!幻覚に溺れる愚民どもよ!
 メシだろうが!
 メシ食って生きてんだろうが!
 滝川クリステルだって!
 リア・ディゾンだって!
 沢尻エリカだって!
 加藤ローサだって!
 木村カエラだって!
 アンジェラ・アキだって!
 (中略)
 (さらに中略)
 お前だって!
 俺だって!
 ♪みんなみんな♪生きているんだ♪友達な・・・違う!
 みんな、メシ食って生きてんだろうが!
 はい、深呼吸。
 まぁ、だからって、食い物作ってる百姓が「特別に偉い」「崇拝しろ」とか言いたいわけじゃない。断っておくが、百姓は例えば「俺はトマトを作ってる」とか言うが、あれはあくまでも「便宜的な表現」なのである。まぁ、「法隆寺は聖徳太子が建てた」と言うのと同じである。だが、事実は違う。「法隆寺は、今で言う大工さんに相当する人たちが建てた」と言うのが正しい。それと同じで、「農産物は、水と大地と太陽と・・・とにかく自然が作った」と言うのが正しい。百姓は、単にそれを見届け、必要に応じて(時にアリガタ迷惑かもしれないが)自然の作用を手伝っているだけであり、自然が作り出してくれたものをほぼ一方的に収奪(搾取と言ってもいい)しているだけなのだ。自然の側から言わせれば、百姓など「ドロボー」以外の何者でもない。
 とにかく、話が飛んできたが、「革命前の覚醒」におけるポイントは「事実を見据えよ」という、ごくごく簡単で当たり前のことである。ところが、重度の資本主義思想中毒になってると、中毒の自覚すらなくなってくるのかもしれない。だいぶ前に挙げたように、何らかの要素を犠牲にして成り立っている世界地図を見て、「それが世界だ」と認識してはいけない。事実たる「世界そのものという現象物」を鳥瞰せよ!例えその事実が、見る者にとって辛く苦しいことであっても、絶対に目をそらしてはいけない!あるいは、その事実を自分勝手に都合よく捻じ曲げ、虚構の事実に浸って中毒してはならない!もちろん、人間である以上、虚構の事実・妄想を「一時のカンフル剤」として使用することが必要な場合もあるだろう。だが、その快楽的効果を乱用・常用し、それが生み出す幻覚に溺れて事実を見失うという結果に至ることは、常に各自が「他ならぬ自分自身に対して」厳に戒めるべきである!

 さぁどこまで続く。

2007年3月18日
 曇時々雪
 午後から農研のOさんとメシ食いながら、「そこはかとなきよしなしごと」を語らいあった。もちろん、農研の飲み会とかでも喋ってきたが、サシでここまで時間をかけて向かい合ったのは初めてかもしれない。この「部屋」の存在も知っているだけに、軽く「赤のエッセンス」も交えつつ、かなり深いところまで喋った気がする。人間集団の生成と推移に伴う集団構成員の意識変化。一種の封建的人間関係における実生活上の影響と対策、及び当事者の心理的葛藤と決断並びに実状。農作業における客観的判断基準の欠落と、主観的判断に基づく「〜な感じ」の意義。生成・発展・停滞・崩壊のように流転を繰り返す事象の一般的性質。能力ということの本質的価値と究極的な自己完結性の賛美。絶対寄生菌としてのウドンコ菌のライフサイクル、及びそれをさらに食う菌と宿主たるキュウリの三位一体性・・・わざわざ小難しく書くとこんな感じのことを語らった。なんつーか、分り合える他者という存在のありがたさを強く感じた。そんなOさんも今年で農研を退会する。今日の話は、連載になりつつある「赤い話」に交えつつ使わせていただく。
 で。
 赤い話を始めよう。
 共産社会実現において、農家を含む「中産階級」が破滅すべきとされる根本的な理由は、そこに「私有概念」があるからだ、ということが確認できた。つまり、「中産階級」という物理的存在が問題と言うより、突き詰めて言えばその背後にある「私有概念」が問題だということである。
 もちろんこのことは、『共産党宣言』(岩波文庫版第85刷)にも、以下の通り明確に記されている。

 この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止という一つの言葉に要約することができる。(p58)

 また、これに関連して俺は、現段階における日本共産党に疑問を抱くため、彼らを全面的に支持することはしない。どころか、むしろ批判的な立場に立つ。それは、党綱領の中でも特に下記の記述に疑問を持つからである。(なお、「生産手段」とは工場や機械など、いわゆる商品・サービスを生み出すようなものを意味する。「生活手段」とは、家とか、車とか、細かいものでは家電とか家具とか、文字通り生活に必要と想定されるものを意味する。)

 社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。(日本共産綱領 五の(十五))

 として、「生活手段については」とだけ断り、あっさりと「私有財産を認める」記述をしているからである。「私有」は、その「私有する程度の差」によって階級を生み出す源泉の一つであることは疑いなく、資本主義思想の根底にある重要概念の一つであることは間違いない。したがって、例えそれが「生活手段」だとしても、安易に無条件での「私有」を認めることはすなわち、共産社会の否定と同義と言っても過言ではない。
 誤解を生む恐れがあるので断っておくが、俺は、別に厳密なマルクス原理主義者であるつもりはない。その証明に十分か分からないが、ここで一つマルクスの主張に疑問を提示しておこう。マルクスは、「私有の徹底排除」を掲げるが、一方で俺は、私有について「妥当な条件付き」で、かつその条件が遵守されるのであれば、生活手段に限らず「生産手段」も含めて私有を認めてもいいのではないか、という見解に立つものである。
 「妥当な条件」の具体的内容としては、例えば、『一定の妥当な最小期間に限定して私有・占有を認める』とか、『私有・占有中に生産される生産物・サービスの私的蓄積はゼロないし妥当な最小レベルに限定する』とかが考えられる。さらに、「妥当な期間・レベル」を具体的に示す必要があるが、それをここで示せるだけの知恵は残念ながら俺にはない。それこそ、共産社会全体として決めていくことであるし、万が一、誰か個人が主張した「妥当」の中身が無批判に受け入れられるなら、それこそ共産社会とは程遠い、絶対王政の再現、あるいは個人崇拝の宗教となることだろう。

 以上をふまえ、俺はここに宣言し、共産主義思想によってたつ者として誓う。

 共産社会が実現する際には、その時点までに俺の私有物となっていた『資本』とみなされる「生産手段」の一切、および「生活手段」の一切を、社会の共有物として惜しみなく共産社会に提供する。

 そして改めて、共有者の一人として、『かつて俺の私有の資本だったもの』について、他の共有者たちと共に使用のあり方を検討し、その生産物を独占することなく、共産社会全体に貢献する。

 同時に、共産社会の秩序維持のため、以下の二点を提案する。

 俺自身も含め、もしも共有者の中に「(妥当とされる条件を超えた)私有概念」を再び持ち出すような者があったならば、「反動者」としてこれを徹底して粛清・再教育する。

 最終的に「反動者」をどう処罰するかは、第一に社会全体としての損害を考慮した上で可能な限り冷静・迅速かつ民主的に決定するものとし、特定の個人の裁量による処罰の決定権は、これを厳として認めない。

 と。
 例えその時までは、外面的には「中産階級」として「資本家的に」振舞うしかないとしても、「その時」が来たならば、自己の宣言に従い、共産社会を支えるべく振舞うことを誓う。
 また、私有概念に裏付けられた資本主義社会は必然的に競争を生み出すため、「社会的生産力の驚くべき向上」という特徴を持っている。その点についてはマルクス自身も認め、非常に評価している。しかも事実、マルクスの当時には想像できなかったであろう程、現代における社会総体としての生産力は向上している。
 よって俺は、「その時までは」、資本主義社会の中で「さらに生産力を向上」させるべく、農産物生産技術の高度化を目指す。しかし、その高度化の目的を、資本主義思想の如く単に「自己の富の増大」とするに留めない。その先の目的として、次のものを掲げる。すなわち、
 『いずれ共産社会が実現した際には、その技術を還元し、共産社会における生産力の一つとして貢献することを目的として、技術の高度化を目指す』
 と。もちろん、俺一人の技術向上などたかが知れている。しかし、一人一人がそう思って誰も動かないならば、共産社会は成り立たない。誰かに指示されるから動くのではなく、各自が主体的に明確な意志を持ち、自己管理をしながら行動することが、共産社会には不可欠である。むしろ、そういう人間が多数を占めるようにならなければ、共産社会が実現したとしても崩壊するに違いない。
 とはいえ、これはマルクスの主張、すなわち「中産階級の破滅による私有概念の消滅」というシナリオを無視している。しかしマルクスから100年以上過ぎた現代資本主義社会である。今や、彼が描いた「資本家と労働者しかいない世界」という、人間社会の完全二極分離に伴う革命のシナリオを進めるには、「想定外」の事態が発生しているように思えるのだ。
 「格差社会」という言葉を持ち出すまでもなく、人間社会の二極分離は着実に進行している。その点、マルクスの「予言」は当っている。ただし、この二極分離は、あくまでも「外面上」の現象であるように思うのだ。
 マルクスが想定したのは、こういうことだろう。まず、人間が完全に「資本家」と「労働者」に二極分化した場合、それは同時に、「持つ者」と「持たざる者」への分化を意味する。持つ者には「持つ物」があるわけだから、必然的に「これは俺の物」という私有概念が強く残る。逆に、持たざる者は「何も持っていない」から、私有概念もほとんどない・・・どころかマルクスは、「持たざる者(=労働者)からは、私有という概念が消滅している」ってぐらいの想定をしていたようにも思えるのだ。
 確かにそれならば、私有概念のない人々によって「全てが共有物」の共産社会を作ることもできよう。なぜなら、革命によって奪い取ろうとするものは、いずれも「元は資本家が持っていたもの」であり、革命参加者の内の誰かが持っていたものではない。よって、もし「私有権」を設定するとしても、説得力のある「権利の帰属先」を決めることができないのである。こうなると当然、「それはみんなのもの」となる・・・たぶんマルクスは、こういう感じで考えたんだと思うし、それだからこそ、「私有概念」は微塵たりとも残さずに抹殺されるべきだと考え、「私有概念」にしがみつく「中産階級」の破滅を望んだと理解できる。
 だがカール・マルクスよ!フリードリヒ・エンゲルスよ!目をかっぽじってよーく見よ!お前達ならばすぐに気が付くはずだ!お前達があれほど期待し、熱く訴えかけてきた、革命の主役たる労働者達を、サラリーマンを、その目で見るがいい!確かに彼らは、かつてお前達が見抜いたように、100年以上経た今もなお、資本家に搾取され続けている。これだけ生産力に溢れた社会にありながら、彼らの多くはその生産力に見合う生活をしていない。そして、自己増殖する資本というバケモノはそのスケールを増し、今や地球全体を駆け巡っている!それに伴う社会的生産力の天文学的向上も、お前達の時代とは比較にならないだろう!信じられないかもしれないが、これが今の資本主義社会だ。お前たちが果たしてここまで予想していたかは知らんが、その根本的な構造と性質は、やはりお前達が見抜いた通りだったのだよ・・・何?階級分化はどうなってるかって?見れば分かるだろう。今や「格差社会」なんて言葉ができる時代だ。まぁ、お前達が予想したより遅い展開かもしれないが、着実に階級分化は進んでいる。確かにこれも、お前達が見抜いた通りだ・・・
 だが!だがしかし、だ。共産主義革命を展開するには、何か欠けていると思わないか?お前達なら、もう分かっただろう?お前達にとって想定外の事態が起きていることが。
 『そこに愛はあるのかい?』byあんちゃん@一つ屋根の下(古い。あぁ古いさ。)
 ある。いや、愛じゃない。「私有概念」が、だ。しかも、お前達があれほど「私有概念は消滅するだろう」と考えていた労働者側に、私有概念がありまくりなのだよ!「労働力再生産のために、そのぐらいは持たせておいてやろう」という資本家側の意図には全く気が付かず、「自分が努力した結果、『自分の物として』何かを持っている」という錯覚に陥っているのだよ!要は、今や労働者階級にまで資本家の意識が浸透して、現実には労働者でも「意識の上では金持ちのつもり」になってしまっているのだよ!もちろん、その意識は行動にも現れている。で、実際に「そこそこ金持ちの如く」行動できてしまうから、これを錯覚だと思わないし、思えないんだろう。錯覚と認識できないから、誤解はさらに誤解を生み、労働者の「金持ち意識」はより強固な確信へと繋がっていく・・・資本家の思うツボってわけだ。まぁ、資本家側の策略が、お前達の想定よりも一枚上手だったと言うことだ。
 どうだいお二人さん。想定外だろう?やっぱりそう思うか。じゃぁ、マルクス君、エンゲルス君、現代視察お疲れ様。あとはゆっくり休んでくれ。ん?何かできることはないかって?いやいや、俺に資本主義社会の本質的構造を教えてくれただけで十分だ。心から感謝してるよ。本当にありがとう。あとは俺の仕事だから、あの世で眺めててくれ・・・って、申し訳ない。唯物論者の君たちにとって「あの世」なんか存在しないんだったな。失礼。じゃぁ、また機会があればよろしく頼むよ。

 以上。

2007年3月17日
 雪
 昨夜の農研監査会が効いたらしい。昼前にHさんからの電話で起きたが、胃もたれでスッキリしない。とりえず監査後の修正とその他資料を作って、総会の案内状配り。
 今日も「赤い話」をしよう。
 信仰告白は済んだ。それは分かった。
 だが、そうするとまず明らかにしなければならないのは、俺自身の立場である。社会的事実として、今、俺は百姓であり、これからも死ぬまで百姓である。いや、「百姓」「農業経営者」という呼称が、資本主義思想の社会において「『経済商品としての農産物』を販売し、多少なりとも資本家的拡大を企図する存在」と規定されてしまう名称であるなら、こう言い替えておこう。すなわち、「土や植物を扱い、『人間の食料たる農産物』の供給を企図する存在」と。
 しかし、そーやってあがいて言い訳がましい自己規定をしてみたところで、やはり現状の俺は、やってることの外側だけを見た場合、マルクスが言うところの「中産階級(=中小の自営業者)」に区分されることは間違いない。また、その現実の行動も、とりあえず今を生き抜くためには、零細事業とはいえ「資本家的」に振舞うしかないことは自明である。つまり、「経済商品」として農産物を売るしかなく、それによって「儲け」をあげなければならない。これは認める。
 マルクス的歴史観における「中産階級」は、「中産階級としての存在を破滅から守ろうとする」が、「(遅かれ早かれ大資本に駆逐されて)労働者階級へ移行」していき、最終的には「資本主義社会」の成長・拡大にとって不可欠な労働者階級を「補充する」べき存在なのである。そして事実、いわゆる「農業の後継者不足=農家の息子のサラリーマン化」という実態が示すように、マルクスの歴史観は見事に現実のものとなっている。
 さらに続けると、マルクスは、むしろ中産階級はさっさと破滅して、その労働力を大資本に提供すべき(端的に言えば、農業なんかやめて、さっさとサラリーマンになるべき)階級だと言う。しかし彼らは、歴史の流れで言えばいずれ破滅する存在、むしろ破滅すべきであるにも関わらず、「破滅から守ろうとする」。そーいう意味で、小農民も含めた中産階級とは、「歴史の車輪を逆にまわそうとする」保守的な存在であることも、まさにマルクスが見抜いた通りである。してみると俺なんかは、外側だけ見れば「歴史を逆に回している」典型的な存在である。公務員のオヤジの元に生まれたならば、そのまま公務員なりサラリーマンなりとして「再生産」されて、資本主義社会を支える一労働者として「補充」されるべき存在だったにも関わらず、わざわざ「破滅すべき」中産階級の道を選び、「その労働力を資本に提供することを拒んだ」わけだから。
 ここで立ち止まって確認しておこう。マルクスが小農民などの中産階級を敵視し、破滅すべきと見る理由の一つは、例を挙げれば「先祖代々の土地を守らねば」などと言って、親方自身はもちろんその息子・子孫に至るまで、持てる労働力を「大資本のさらなる成長・拡大のために」提供することを拒むからである。別にそういう意図じゃないだろうが、事実、一般的に農家の親方がその息子に「農家を継ぐこと」望み、「俺は(大資本家のもとで働く)サラリーマンなる!」という息子の行動を阻害するからである。むしろ積極的に、息子のサラリーマン化を推進すべきだと言っているのだ。
 資本主義社会の打倒を目指すマルクスの思想からすれば、これは一見矛盾しているように見える。だが、マルクスの歴史観は、資本主義社会は、一言で言えば「成長・拡大の末の自爆(=革命)」によって崩壊するというものである。よって、資本の拡大を推進する要素、すなわち労働力を持つ人間は、可能な限り多く資本の元に結集させるべきなのである。極端に言えば、全ての人間を「資本家」と「労働者」に二分し、中産階級など「それ以外の立場」をなくすことが、革命の現実化にとっては不可欠なのである。
 これを中産階級側から見れば、大資本によって駆逐されて破滅に至る恐れがあるわけで、中産階級も労働者階級と手を組んで、「共通の敵」たる資本家を打倒すべく「一時的には」革命勢力として機能しうることをマルクスは認めている。だが、例え中産階級が「革命」に加担しても、その動機はあくまで「保守的」で、むしろ「(革命を推進する立場から見れば)反動的である」とマルクスは断言する。
 つまりマルクスは、「労働力を資本に提供しない」から破滅すべきだと言ってるわけじゃない。それもあるが、それプラス「先祖代々の・・・」というような意思や言葉に、広義の「私有・占有」の観念(=資本主義思想を支える観念)を見ているのである。一方、共産社会とは「資本主義社会の中で、一部の人間によって私有されていたもの(=土地や工場・機械など、広義の「資本」)全て、もちろんそこから生産されるもの全てが、社会全体の共有物となる」社会である。このような社会おいて、私有の観念を振りかざし、共有物として手放すことを拒む存在は、まさに「反動的」であるから、破滅すべきとしているのである。もしも中産階級を絶滅させることなく革命が達成された場合、今度は「(土地・施設・機械などを所有する)中産階級」と「労働者」という対立構図が発生することを、マルクスは想定した。そうすると、当然ながらそれまで中産階級であった存在が、「モノを持つ者」として、先に葬り去ったはずの「資本家」のイスに座る形で再び階級構造が生成してしまう・・・よって、マルクスが革命を語るとき、そこには「(私有の観念を振りかざす)中産階級が絶滅している」という前提条件があることは疑いないのである。
 ここまでの点を、『共産党宣言』(岩波文庫版第85刷)から引用しておこう。

 中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たちの中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは、自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場につくのである。(p53)

 単にこの箇所の再確認に終始しただけだが、疲れたから続きは明日。

2007年3月16日
 曇
 午後出動で除雪するつもりだったが、やってみたらキャタが明据にハマるんで断念。リア、ドナは力業で巻き上げたが、ディゾンの東側はムリなんでハンドパワー除雪して巻き上げた。以下、現状。
 「赤い話」の続きをしよう。
 ホリエモンに、実刑判決が下った。まず、この騒動全体を通じた俺個人の率直な感想は、「でしゃばった子供に対する、大人側からの見せしめ・イヤガラセ」という感じがしてスッキリしない、ということ。彼の場合は「たまたま」バレた(あるいは誰かがバレるように仕向けた?)から騒ぎになったわけで、大抵の会社では、あれどころか、あれ以上のことをやってることは、ほぼ間違いないからだ。いやむしろ、お互いにお互いの首を絞めあっているような実態を考慮すれば、「そうしないと回らない」と言うべきか。
 んで、街の人の声として、「悪いことをしたんだから当然じゃないですか?」なんてのがあった・・・ちっとは考えてモノを言え、と言いたい。じゃあ、それを「悪いこと」と判断するおまえにとっての「正しいこと」「正義」とは何だ?と。法律か?法律を基準に「有罪」と決まったから、おまえにとっても「悪」と判断するのか?そもそも、資本主義社会における法律は「資本家」を基準に作られていることを分かって言ってるのか?「右へならえ」も、ここまでくると滑稽である。北朝鮮のマス・ゲームと本質的に違うところはない。まぁ、それはそれで(ある意味では)美しいが。
 かつてパスカルは、「人間は考える葦である」と言ったそうな。それは一つの真理である。ならば、考えることを放棄した人間に、人間たる資格などない。唾棄すべき存在とは、こーいうのを言う。意志を持たない存在。透明な存在。価値のない存在・・・何も考えることなく、ただ風に揺られるだけの葦ならば、考えて立ち、方向を見定めて伸びんとする葦の邪魔でしかない。粛清!しゅくせい!SYUKUSEI!だが、考えぬ葦どもよ、悲観することはない。お前たちは共産主義思想の赤き劫火の前に焼き尽くされて灰となり、「考える葦」の肥やしとなることだろう!
 ・・・熱くなりすぎたな。さて、「livedoor被害者の会」というのがあるらしい。要は、livedoorに投資して損をしたという人の集まりらしい。投資ってのは基本的に、「投げられる(=例え失っても諦めがつく)」「資本」を持っている人・・・つまり本来的には「資本家」だけが可能となる行為である。まぁ、「デイトレーダー」とかいう言葉ができるような時代だから、今や「(本来的な意味で)投げられる資本」を持っていなくても、すなわち、普通のサラリーマンでも、「投資」するような人がいることは事実である。ただ、言えることは、投資する主体がどんな存在であろうと、その行為の根本に「金を儲けたい」という意志があることは共通しているということ。資本主義思想の下でそういう意志を持つことは、ごく当然であり、その意思自体を否定するものではない。ただ、「投資の世界」においては、「参加者は全員金持ち」「自己責任」ということが基本である。例えデイトレーダーでも、「(本来的な)金持ち」として扱われることを忘れてはいけない。「この金は、別に失うことになっても構いません」という意志の持ち主であるという前提があることを認めなければならない。
 「塩原町長選挙」という演劇脚本の中に、『今の日本じゃ、どんなに田舎に住んでいたって、意識の上じゃ都会人なんだ!』というようなセリフがある。これをもじって言うなら、『今の日本じゃ、例えサラリーマン一般とされる人だって、意識の上じゃ金持ちなんだ!』となる。一時期流行った「中流意識」って言葉は、まさにこれであろう。サラリーマンという立場に、上流も中流も下流もあろうはずがない。つーか、サラリーマンというカテゴリーの中だけに限定して、そーいう比較意識を持つこと自体がズレている。何で「人々全体」の中で比較できない?もっと言えば、何で「本来的な金持ち」を除外するという暗黙の条件を前提に比較する?自分が「圧倒的下流」になるから?卑屈になるのがイヤだから?そんな卑小なプライドなど投げ捨てよ!目を見開いて事実を直視せよ!都合よく歪曲した事実、自分の意識の中で作り上げた「ウソの事実」を放棄せよ!「本来的な金持ち」まで含めて考えれば、大多数は「労働者の諸君」という言葉に一括される立場だというその事実から、目をそむけるな!
 「(本来的な意味で)投げられる資本」を持っていないにもかかわらず、何にあおられたか知らんが「投資」するサラリーマン。まさにその姿は、「意識の上の金持ち」と言えないか?はっきり言おう。この文章を読んでいるあなたがサラリーマンであるならば、年収がなんぼだろうとも「金持ち」とは言えない。「三田耕生よりは金を持っている」とか、そーいうレベルで比較して「金持ち」と言ってはいけない。俺は、あなたより金を持っていない。これは疑いなき事実として認めよう。だが、世の「金持ち」からすれば、あなたとて俺と同じ「貧乏人」の一人として括られる存在に過ぎないことも、また事実である。その事実を真摯に受け止めるべきであり、その上でいかに振舞うか考えるべきであり、現実に振舞うべきである。「実体・中身を伴わない意思」、つまりバブル意思とでも言うべきか。それがはじけて受ける痛みは、「バブル経済」という、自分の遥か外側の抽象的存在がはじけた時の痛みとは、比べ物にならないはずだ。痛みを受ける主体は、まさしくモロに自分自身、自分だけなのだから。そして百姓はもちろん、中小の自営業者、そして金持ち資本家は皆、その痛みと隣りあわせで日々生きているのである。だからこそ、「金持ちではない」にせよ、金持ちの立場も「なんとなく」理解できるし、「実際に金がない」から、同じ立場のことも理解できうるのだ。
 さて、ホリエモンは有罪か無罪か。いわゆる粉飾決算であるとか、起訴理由とされていることが事実であるならば、有罪、「悪」である。市場に混乱をきたしたからでもない。投資家に損害を与えたからでもない。俺がホリエモンを悪と判断する理由は、「虚偽の事実の公表」、つまり「ウソ」、その一点だけである。市場の混乱だの投資家の損害だのは、その二次的影響に過ぎない。だからもし、起訴理由とされていることが「事実でない」「ホリエモンはウソをついていない」ならば、「被害者の会」は何も主張できない。自明の通り資本主義のルールの下では、(事実に基づく情報を判断して)投資することは、例え損をしたとしても投資家の自己責任であるからだ。同じことだが、市場の混乱も含めて、「そーいう形で他人に損害を与えること」は、資本主義のルールの下では、という条件付きで、何ら罪ではないのである。さらに言えば「投資する自由・投資しない自由」「損害を受ける自由・損害を受けない自由」という意味での「金持ち基準の自由主義」のルールが厳として存在するのである。しかし問題は、「他者に損害を与えることは悪である」という普遍的ルールが、「一定の条件の下では許される」ということである。また、その「一定の条件」であるはずのものが、無意識のうちに、さも「普遍的な条件」として認識されていて、その無意識の固定化に対する自覚すら薄れつつあるという、この現状こそが問題だと言える。
 先に挙げた「塩原町長選挙」では、『意識の上じゃ都会人なんだ!』というセリフに続いて、『いつまでも「田舎vs都会」みたいな図式でモノを考えていたんじゃいけないんだよ!』という流れに繋がっていく。それは、「田舎」でも「都会」でもいいから、どっちかに決めろ!という二者択一を迫っているのではない。つまり、「正」⇔「反」の対立から「合」へと止揚するとしたヘーゲルの弁証法であり、「歴史・社会とは、絶えず変動していく運動体である」と主張したマルクスにとっても基本思想の一つである。資本主義思想が「正」、共産主義思想が「反」であるなら、いずれも単独では「合」へ至る事はない。また、完成した「合」とて、永久不変の「合」であり続けることはなく、いずれ「正」の立場に変化し、それに対応して「反」が生成する。そしてまたそこから、新たな「合」が生成し・・・マルクスは、結局のところそれを思い描いて、資本主義思想に真っ向から対立する共産主義思想を、「あえて」「熱っぽく」「危険なまでに」展開したのではないかと理解するに至った。
 そして今や、資本主義思想一辺倒の世界である。「合」に至るためには、「反」たる力が弱すぎる。ならば俺は、反抗期の子供たるべく「反」の側に立ち、共産主義思想を掲げ、微力ながら「合」に至るプロセスを支え、あわよくば見届けようと思うのだ。すなわち、「全力で」「あえて」「過激に」共産主義思想を掲げつつも、それ自体を望むのではなく、あくまでも望む対象は「共産主義の先に捉える」という姿勢であろうと。
 ここ3日間続けて、自問自答しながらも書いてきたが、これがその結論であり、同時に「信仰告白」である。俺が「赤のメガネ」をかけていると言うのなら、あなたは「白のメガネ」をかけていると言える。無論、俺は「赤一色の世界」を望むものではないし、「白一色の世界」に満足するものでもない。そーいえば、白一色の部屋に人間を入れてその他の外部刺激も遮断すると、精神に異常をきたすとかって心理学の実験があった気がする・・・まぁいい。赤白合わせて「ピンクな世界」を見るために、「裸で」「思いっきり」「ぶつかり合って」「気持ちよくなって」「何かを作って」「共に育てて」いこうと思うものである。
 さぁ、資本主義思想よ、潰せ!俺を潰せ!お前たちに確固たる信念があるならば、戸惑うことはないはずだ!さぁ、潰しに来い!お前たちの力を持ってすれば、俺のような虫ケラを潰すことなど他愛もないはずだ!そしてあっけなく潰れた俺の屍の上に、新たな未来を築き上げるがいい!そして俺は、断末魔の叫びの中、お前たちの足元からその未来を見上げよう!そこに、赤白混じった「ピンクな世界」を見ることができたなら、俺は「喜んで」「気持ちよく」死んでいけることだろう!
 ピンクな世界・・・何と官能的でエロスに満ちた響きなんだろう。

2007年3月15日
 曇
 世界地図。同じ「世界地図」といっても、メルカトル図法の地図だの正距方位図法の地図だの(他にもあるが、地理専攻だったのに忘れた)と、まぁ様々ある。
 面白いのは、「世界」ってのは三次元の現象物としては間違いなく「ただ一つしかない」にも関わらず、二次元に描き出すとなると、「何を目的とするか」で、全く違った結果を生み出すということだ。「形」の正しさを重視するのか、「面積」の正しさを重視するのか、あるいは「距離」なのか「方位」なのか。「世界地図」と聞いて多くの人がイメージするのは、おそらくメルカトル図法による世界地図だろうが、正距方位図法(中心からの距離と方角が正しい地図)となると、それとは全く異なる「世界地図」が現れる。以下の「NijiX」ってサイトでは、中心とする都市を選択でき、それによって様々に形を変える世界地図を見ることができて面白い。「おぉ、ここを中心にするとこんな感じになるのか〜」と。
 http://hp.vector.co.jp/authors/VA011609/azmeqdist/azmeqdist.html
 ここしばらく、マル経と共産主義に関する文献を読み漁った結果、俺が得たイメージを表現するなら、そんな感じである。
 「危険」ということも同じである。「安全」の基準をどこに据えるのかで、その意味するところも全く異なるものになる。そして事実、資本主義思想に基づく社会である現時点の基準で考えれば、共産主義思想は間違いなく「危険」である。ただ、「危険」と目されている共産主義思想ですら、目指すところは資本主義思想と全く同じなのだ。すなわち、「人々にとって、自由でよりよい、民主主義の世界を作る」ということ。これだけを取って見れば、共産主義思想の何が危険なのか、ということになる。しかし、「人々」の主体を具体的に何にするかで、全く間逆の思想が生まれる。
 資本主義思想の言う「人々」は、文字通り「資本を持つ人々」、ごく簡単に言えば「一部の金持ち」である。「一部の金持ちにとって、自由でよりよい民主主義の世界」を目指すのが資本主義思想の根本である。すなわち、ここでの「自由」は「一部の金持ちにとっての自由」を意味し、「それ以外の人の自由」は必然的に考慮対象外となる。もちろん、「民主主義」の「民」も一部の金持ちを意味するから「一部の金持ち主義」、つまり「一部の金持ち中心の世界を作ること」が、資本主義思想の究極的な理念となる。そしてどうやら、「そんな世界がいいでーす」という大多数の意思でもって、この世界は成り立っていることになる。
 一方、共産主義の言う「人々」は、被雇用者をはじめとする「一部の金持ち以外の人々」である。よって、「一部の金持ち以外の人にとっての自由」を目指し、また、「一部の金持ち以外の人中心の世界を作ること」が、共産主義の理念となる。必然的に「一部の金持ち」は考慮対象外として排除されることになる。そしてどうやら、「そんな世界はイヤでーす」という大多数の意志でもって、この世界には共産主義思想が普及していないことになる。
 ここで世界地図の話に戻れば、まず、「図法」は様々ある。しかし重要なのは、三次元を二次元にする以上、「何かを犠牲にしないといけない」ということである。犠牲になるのは「形」だったり「面積」だったりと図法によって異なるが、とにかく何かが犠牲にならざるを得ない。ただし、「重視した要素」の観点からすれば、それでも「正しい」と主張できるし、事実、正しいのである。
 同じことが、資本主義思想と共産主義思想にも言える。いずれの思想も「ただ一つしかない世界」を描くために、何かを犠牲にしているわけである。だが、忘れちゃいかんのは、三次元の「世界」が「何も犠牲にすることなく」そこに確かに実在しているという、その事実であろう。「人々」という言葉を、そのまま「人々」として扱える思想はありえないのだろうか?

2007年3月14日
 雪やや風
 ここんと続いた雪で、完全に冬に戻っている。この調子だと除雪するハメになる。
 昨日の駄文を改めて読み返したら、もうバレバレなので白状しておこう。マル経・共産主義の基本書・入門書と呼ばれる古典4つ(「共産党宣言」、「賃労働と資本」、「賃金・価格および利潤」、「空想より科学へ」)は、今日までに全部読破した。いや、「してしまった」と言う方が正しい。
 高校あたりでシュールにのめりこんでた時期、「関連思想」として入ってきてはいたし、経済原論とかの「関連書」までは手をつけていた。が、「ナマ」に直接触れるのは自分で禁じていたため、まともに読んだことはなかった。理由は他でもない。単純に「ヤバそうだから」である。その禁を破り、今回初めて、もちろん持ってないから買って「ナマ」で触れてしまった・・・
 はたして、ヤバかった。
 何がヤバいのか?もう、読む者を引きずり込むその力である。搾取する主体と、それを生かし続ける体制への強い怒り、自由で人間的な生活(ってのがどんなのかは置いといて)を求める悲壮な叫びが、思わず後ずさりする位の、例えるなら津波のごとき勢いでもって襲いかかり、彼方へと引きずり込もうとする。「そこに楽園があるのだ」と・・・
 大学の時は、色々と怪しげな宗教の勧誘があった。中には、「教え」を説いた本をタダで置いていく団体もあったんで、興味本位で数冊読んだこともある。だが、それらのどんな宗教よりも、マルクス、エンゲルスの言葉には「魔力」があった。まぁ、宗教を否定する彼らにとっては不名誉な評価だろうが、一言で感想を述べるなら、「魔力」と言うより他に表現する言葉を俺は持たない。「三代目魚武濱田成夫」の作品にも相当な力を感じるが、例えるなら彼の力は喜怒哀楽の「喜・楽」で「押し出してくる力」、マルクスとエンゲルスのそれは「怒・哀」で「引っ張っていく力」といったところか。
 マルクス的な「賃金労働者」という意味では、俺は片足突っ込んでる立場でしかない。そんな中途半端な労働者ですらこれである。世のサラリ−マンがこれらを読めば、まず間違いなく一発で「赤に染まる」んじゃないかと思える。かつて資本主義各国が、危険思想としての対応を取ったこともうなずける・・・にもかかわらず、これらの本が公然と販売されている現状と見るに、おそらくは「残念なことに」、労働者の思想までも資本主義の教えにバッチリ洗脳されて、もはやその危険性が消失したってことを意味するんだろう。
 まぁ、「マルクスの言葉しか信じない」とか言い出せば、それはそれで原理主義・宗教なわけだが、世界を反対側から眺めて見るというバランスも重要だろう。
 『共産党宣言』(岩波文庫版)の結びから、かの有名な言葉までを抜書きする。

 共産主義者は、自分の見解や意図を秘密にすることを軽べつする。共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。

 万国のプロレタリア団結せよ!

 ・・・と。通して読んだ身からすると、逆に「ここばっかりが」有名になるから「危険」って見られるんだと思う。「と思う」俺も染まっているのか?

2007年3月13日
 雪やや風
 昨日書き出した駄文をまとめて「よもやま話」に公開した。あのページの更新はすげー久々だが、それだけでページ半分埋めるぐらいの膨大なものになった。やっぱし字に起こしてみることで考えがまとまるってのは、事実だなーと再認識。

2007年3月12日
 雪やや風
 改めておもろいもんだとかみしめている。

2007年3月11日
 雪やや風
 経済原論を再び開いた。


■Home
※当サイト内の画像、文章、その他コンテンツを、この俺の承諾なしに無断転載することを禁ずる。